HPO機密日誌

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

アドラーは常識人:自分が変わらなければ人生は変わらない

「嫌われる勇気」、「幸せになる勇気」を読んだ。喪失感から抜け出しつつある現在の私が読むべき本であった。

嫌われる勇気

嫌われる勇気

幸せになる勇気

幸せになる勇気

いまは自己啓発こそ動画で見るのが流行なのだそうだ。その意味で短時間で理解するための動画の解説で言えば、こちらがわかりやすかった。

youtu.be

この動画のポイントとしては、自分が過去のトラウマに囚われていると考えることこそ大間違いだアドラーが主張していることだと想う。「トラウマ」などの過去の経験によるネガティブな「苦しみ」すらも、「現状を変えたくない」、「一歩踏み出しても嫌われるだけだ」といった「目的志向」で説明できる。「現状肯定」こそが見方によっては苦しみの原因なのだ。よくもわるくもヒトのすべての行動は「目的」から説明できるのだというのがアドラーの主張。

これは、まんま般若心経の「色即是空、空即是色」だと今の私には思える。過去と他人は変えられない。未来と自分だけが変えられる。自分自身を「変えて」こそ「四苦八苦」から解脱できる。自分は変えることができる。そのために自分が集中すべきなのは、自分の「タスク」であり他人や過去の「タスク」ではない。「色即是空」から始まり、案外アドラーは私にとっては常識的なことを主張しているように見える。

たとえば、分業。上記の二冊の記述から言えば、人類の生産性向上は信頼に基づく分業によって可能となったと。そして、その分業の根っこにあるのは男女の愛だと。

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「分業」とも関わるが、ヒトの子供はあまりに無力で生まれる。このために男女の協力が必須となる。更に、ヒトの子供は自分を「主役」にして必死に他者からの「承認」をもらわないと生きていくことがかなわない。このため、大人ににっても「自己承認欲求」から抜け出させない。近代以降の心理学のテーゼのひとつだと私は認識している。

アドラーは社会への「貢献感」の重要さを時、自分が世界の主役ではなくごく一部であることを悟ることが「自立」への道だと説く。そして、共同体への貢献における役割を自覚するとき、「人生の主語がかわる」と。私もこの何年かで人前で話しをする機会が増えたが、できるだけ話しの「主語」を自分にしないように心掛けている。自我いっぱいの私なのでまだまだ自分を主役にしてしまいがちだが、「気持ち」は聞いて下さる方。

そして、こららのアドラーの主張をもとに自分の人生の有り得たかも知れない姿をシミュレーションしてみると、どの道を通ってもきっと結果は同じだとなる。

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運命の人はいない。誰と出会っても、自分が自分である限り人生の結果は変わらない。よくよく分かった。

結婚とありえたかもしれない別の現在

テッド・チャンの新しい短編集、「息吹」を読了した。今の私の「状況」への見方を変えさせるインパクトがあった。

息吹

息吹

収録されたいずれの作品も自分の決定的な運命とはなにかに対峙する物語だと私には読めた。収録された作品の中で一番のインパクトは「不安は自由のめまい」。分岐する別の時間線との交信が「プリズム」と言われる装置で可能になったという世界。量子論的ゆらぎというか、別の条件、別の決断がもたらす無数の別の時間線が可視化される。無数の自分の有り得た現在が仮に見えれば、自分の運命とはなにかを問わざるを得なくなる。自分の決断とはなにかと自由意志すら疑わしくなる。

自分の意思とはなにか?自分の決断がもたらす結果とはなにか?この疑念はまさに私が突きつけられた私の人生の「状況」そのものだ。自分の決断の確定性を疑えば、私が過去の決断の結果だと考えざるを得ない「状況」への見方が自ずと変わる。例えば、人生最大の決断である「結婚」を例に考えよう。自分がホルモンにそそのかされ、欲望に突き動かされてパートナーを選ぶ。本作の「商人と錬金術師の門」、「ソフトウェアオブジェクトのライフサイクル」にも示されたとおり、パートナーを選ぶ、あるいは選ばないという決断はおのずと結果を生む。その決断の結果として産み落とされた瞬間から子は別な人格となる。そして、別の結果を生む。子は自分の思い通りにならないことはここで書くまでもない。

そして、人は「子」をなす。

マズローの欲求五段階説をネットワークから考える - HPO機密日誌

とすれば、分岐する多元宇宙の中では別の時間線で別の選択、別のパートナー、別の子が存在するのかもしれない。多元的な可能性の曼荼羅の中で、自分の決断の結果をどう受け止めるかに苦悶していた。有り得たかも知れない過去の決断、変わっていたかもしれない現在、夢視ていた未来。すべては、幻想に過ぎない。テッド・チャンを読み終わった後、結果は結果としてそのまま受け止めるしかないのだと考えられるようになれた。

考えてみれば、「不安は自由のめまい」は「あなたの人生の物語」と表裏なのかもしれない。「不安」はありえたかもしれない現在を、「あなたの」はありえる未来を描いている。「あなたの人生の物語」ではまだ「決断」すらしていない現在で決断をする。そのパートナーを選ぶ決断が、未来において子を失うと分かっているのに。

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別の視点から見れば、排除されるべき「不安」とは「色即是空空即是色」、「心無罣礙」なのだと。「状況」の中で苦悶するうちに山田無文師の「般若心経」とロングセラーであり「嫌われる勇気」を読んだ。まだ、「今」を生きるしか私にはないのだ。

般若心経

般若心経

嫌われる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教え

嫌われる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教え

未来と過去において、ただただ現在を一生懸命生きるしかない。過去の決断がこうであったら、ありえたかもしれない未来はこうだったかもと考えることは「罣礙」でしかない。

「あなたの体は9割が細菌」

私達の存在はいかに自分が考えている「自分」ではないかが伝わった。

思考力が低空飛行していてなかなかブログのエントリーを書けない。このエントリーはほぼ一ヶ月ぶり。プライベートでも、仕事でも、人生というのは本当に自分の思い通りにはいかないのだと思い知らされている。まあ、しかし、自分の体全体として捉えた遺伝的多様性で言えば「自分」の「ヒト遺伝子」は1割にすぎないのだと言われれば、そりゃあ自分自身ですら思い通り制御できるわけがないのだと納得させられる。

本書の企図は、原題の"10% HUMAN :How Your Body's Microbes Hold the Key to Health and Happiness"で十分に説明されている。「いかに体内の微生物が健康と幸福の鍵を握っているか?」と。体内の嫌気性微生物などが私達の健康の鍵であるかは、テレビのコマーシャルを見ているだけでも伝わる。ずいぶん以前から栄養学でも腸内微生物の栄養素となう食物繊維の大切さは訴えられてきた。小腸では吸収できない植物繊維の栄養素が大腸の微生物にとってなによりのごちそうなのだと。大腸微生物、「大腸菌」というと水質汚染の指標に使われるくらい偏見をもって見られてきたが、その名の通り私達の腸内で重要な役割を果たしているのは間違いない。小腸は自力で消化、吸収しているが、大腸は微生物の協力なくては働かない。腸内の微生物バランスは自分の健康にとって重要なのだと。著者のアランナ・コリン氏がTEDで抗生物質の不適切な投与が体内、特に腸内の微生物バランスを崩していることを指摘している。いわく、家畜を太らせるために抗生物質が投与されているように人間も腸内微生物バランスを崩すと肥満につながると。当然、ほかの病気にも影響する。

www.ted.com

ちょっと意外だったのは、微生物が健康に影響するばかりでなく、微生物、細菌の類がその人の思考傾向まで影響しているという指摘だった。確かに一部の細菌、キノコは昆虫や、動物を狂わせることは知っていた。冬虫夏草などはよい例であると。

gigazine.net(ちょっとグロなので閲覧注意)

昆虫に寄生する植物としては冬虫夏草などがよく知られていますが、アリに寄生して発芽するOphiocordyceps属の一種は、宿主の精神を乗っ取って生存に有利な場所に移動させ、最も適した時刻に宿主が死ぬように操作するという特性を持っていることが分かりました。

人間においても腸内の微生物バランスが思考力や、感情まで左右する可能性があると本書は指摘している。一部の自閉症抗生物質の投与が原因である可能性があると。腸と性格、人生の幸せまで関連しているのだとするともう現代版の陰陽五行説の世界に思える。

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脾(胃腸)が弱かったり、傷害がある人は、顏色は黄色を帯びています。日頃より物事を思い過す性格ですが、よく物忘れをします。唇が厚く時々熱っぽく腫れたりします。甘い味が好きで、病気は四季の土用に属し、俗にいう季節の変わり目(季節と季節の変わり目の18日間)に体調を崩しやすいのです。

http://www.ikkando.com/kanpo-kiso/riron-kakuron.htm

本書の後半では出産、子供の健康と体内の微生物の話題となる。母親から健全な体内微生物の「セット」を譲られることがその後の健康に重要なのだと。母乳の中に母親の腸内の微生物が含まれいてるのだと。母乳が腐りやすいことは知られている事実だが、その理由が母親から乳児への腸内微生物のプレゼントの副作用だとは知らなかった。

母乳栄養では、感染のリスク、肥満、2型糖尿病の発症を低下させることが示されています。

赤ちゃんを感染から守る母乳の免疫。ミルクで免疫力はつかないのか|子育て情報メディア「KIDSNA(キズナ)」

出産において母親の膣内の微生物を「浴びて」新生児が生まれてくるところからこのプロセスは始まっていると本書は指摘している。もっと言えば、出産口である膣と肛門が近くにあることさえも広く動物において母親から新生児、あるいは卵へという形で自分の微生物を「譲る」ために進化しきたのだと。もう感服するしかない。

新型コロナウイルス感染が全世界的な課題とされる今、本書を読むと体内微生物を含めた体の免疫機構とはなんなのかと問いたくなる。身体全体の遺伝的多様性の1割にすぎないヒト遺伝子による機構だけで免疫を議論するのは、残り9割の体内微生物をふくむ身体全体としての免疫力を軽視することにならないだろうか?ヒトの「たくましさ」を失わせることにならないだろうか?

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体内の微生物バランスが変わりうるもの、人から人へ影響が受け継がれていくものだという事実に少々心当たりがあるのだがあまりにプライベートな体験なのでここにはかかない。自分の9割である体内、腸内細菌とはこれからも仲良くしていきたいものだ。

「クララとお日さま」

一気に読んだ。どきどきしながら読んだ。カズオ・イシグロ作品初読了。

クララとお日さま

クララとお日さま

インタビューに心惹かれた。インタビューの感想エントリー後、すぐにAmazonから購入した。

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この物語は子供のためのAIの友達、AF(Artificial Friend)が実現された近未来。AFであるクララが語った物語。ここに大きなポイントがある。子供視点なので全容はわからないが教育は遠隔が当たり前になり、たぶん遺伝子操作を含む「向上処置」が当たり前になっている。背景には、まるで新型コロナ騒動を予見したような大きな社会変動があるように見える。もしかすると、ベーシックインカムが実現しているのかもしれない未来。それでも、社会的な分断はいまよりもっともっと進んでいると。

正直、イシグロ氏の「感情優先社会の危うさ 」の展開を期待して読んだのだが、私には本書と「感情優先社会」をつなぐ補助線がみつからなかった。少々、死を身近に感じることがありここに描かれる死との境界線の物語に強く共感はした。

とすると、本書の問題は「自分を自分たらしめている『もの』はなにか?」という問題に行き着く。AFであるために観察深く「作られた」クララと「魂を持つ」とされる人間になんの差があるのだろうか?人間のテクノロジーで作られたものと自然に形成されたものとの差はますます近づいてく。それでも、ひとつも人間は幸福にはならないのかと。自己家畜化してくばかりで、その社会的なフレームワークの中でしかいきられない。環境に特化して繁殖するあまり自然環境からすれば「ひよわ」になっていくばかりなのかと?

男は女を、女は男を、「有益化」し、「家畜化」してきたのが人類の歴史なのだと。人類はすでに「家畜」であるがゆえに「文明」という牧場、「政府」というカウボーイ(cow poerson?)なしでは生きられない。

「赤の女王」が人類を自己家畜化 - HPO機密日誌

もしかすると意図的に主体的な「意識」を子供のままのレベルに押さえられていると予測されるAF、人工知能、クララによって語られる物語しか私には読めていないので、本来のたぶんもっともっと悪意に満ちた物語へのヒントが本書にはちりばめられているのかもしれない。機会があれば、今度こそ「日の名残」に挑戦してみたい。

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■追記 20210317

もしかするとこれはクララが自分の人生を振り返って「よく(善意に)」解釈できたという物語なのかもしれない。お日さまの奇跡はクララがそう解釈しただけかもしれない。クララと向上処置されていない幼馴染は分かれるしかなかったのかもしれない。人生はその終わりにあたって「よく」自己解釈、納得できるかしかないのかもしれない。

■追記 同日 その2

なんと作者自ら作品の本質を語っていらっしゃった。

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クイーンズ・ギャンビット:女性のもろさ

このブログを書き始めて何度も経験した来たことがある。なぜ人生のこのタイミングでこの作品に出会うのかと。これまでも、運命的な出会いをいくつもの作品に感じてきた。今も「クイーンズ・ギャンビット」を一週間ほど前から見始めたことの符号に戦慄している。

www.netflix.com

このドラマは間違いなく傑作だ。この物語の説明はウェブに溢れている。大変な話題、共感を呼んでいることは間違いない。なんとミュージカルになるというニュースまであった。この物語の主人公、エリザベス(ベス)・ハーモンのモデルはボビー・フィッシャーだという説まであった。

(ベスは実在しない)とはいえ、『New York Times』のマクレーンは、ベスは多くの点で世界的に有名なチェス・チャンピオンのボビー・フィッシャー(Bobby Fischer)に非常に似ていると語る。1967年、ボビーが最後のアメリカのタイトルを獲得した年、ベスはこのドラマで米国選手権に勝った。ボビーは14歳で最初にチェス・チャンピオンになり、ベスは同様に16歳でチェス・チャンピオンになる。またボビーは、競技に勝つためにロシア語を独学で取得した。これは、ベスも同じ。ドラマでは、ベスの努力によりモスクワでヴァシリー・ボルゴフを倒している。ボビーはまた、彼の努力がロシアのボリス・スパスキー(Boris Spassky)に対して大きな勝利をもたらしている。

『クイーンズ・ギャンビット』は実話? ベス・ハーモンのモデルといわれる人物について知っておくべきこと|ハーパーズ バザー(Harper's BAZAAR)公式

女性蔑視の傾向があったボビー・フィッシャーを女性に変えて「物語る」ところにこのドラマの妙味があるという。「女性の」天才チェスプレーヤーの葛藤にこのドラマの現代的な意義があると。その意味では私がこのエントリーにつけた「女性のもろさ」はこのドラマへの形容として不適切かも知れない。いや、人生における「もろさ」は女性でも、男性でも同じだと言われるだろう。しかし、いまの私はベスが女性であるからこそ共感しているのを自覚する。ベスの抱える様々な闇がなぜこのタイミングで立ち現れるのかと。自分自身が誰であるかの葛藤、依存症的な行動、更には、母親から受けたトラウマ、自分の欲求を我慢せずにいますぐに応えようとする衝動、破滅につながるかもしれないとわかっていてもとってしまう行動などなど。男性目線からだからかもしれないが、女性だからこその「闇」だと見えてしまう。しかし、いまの私にはバレリーナの優雅さと折れてしまいそうな繊細さ、もろさは女性だからこそだと見えてしまう。

一時は、精神安定座、アルコールで破滅しかけたベスが見事に最期の勝利を収める場面は感動的だ。しかし、ベスは実在の人物ではない。女性であっても、男性であっても、親からのトラウマなどにより、衝動的な要求を我慢しきれず、破滅の一歩手前で踏みとどまれないのが人間ではないだろうか?ドラマの中でもベスの幼少のころの母親との関係性が次第に表れてくる。後半に至り、1話1話の冒頭がベスの幼少期の母親の言説であると気づくのに時間がかかった。女性の母親との関係は男性にはわからない危険さがあると言っても許されるのではないだろうか?そうそう、佐野洋子の「シズコさん」との出会いのタイミングも運命的であった。

hpo.hatenablog.com

様々な作品との出会いで私は自分の人生のピンチを理解することができた。例えば、「シズコさん」を2009年に読んである理解に至り、その後、自分なりに人生のピンチに区切りをつけた。いや、つけたと想っていた。しかし、それは大きな間違いであったことを思い知らされた。女性のもろさを自分が全く理解していなかったことも思い知らされた。私の無理解は、このブログがいまだに残っている存在理由すらも否定しはてた。それもこれもすべては自分のせいだ。ただ、少なくとも「クイーンズ・ギャンビット」を観ていまの自分の現状をほんのすこし理解することができた。それが救いであったと。ベスは実在はしないが・・・。

自由と規律

今頃「ヴィジョナリーカンパニー」、ジム・コリンズにはまっている。ここにカズオ・イシグロの問いの答えがあるように私には思える。

toyokeizai.net

イシグロの指摘はまさに現代社会の本質をついている。

それでも私たちは、真実がきちんと伝わるすべをなんとか考えなければいけません。それがセンセーショナルだから、とか、目立つから、とか、怒りに満ちているからという理由ではなく、尊敬の念から注目を集めるものが必要です。私たちは何とかしてもっと思慮深いものを作っていかなければならないと思います。

戦後の世界は、ほぼありとあらゆる「権威」を破壊してきた。宗教、理想主義的政治(イデオロギーといってもいい)、地域社会、家族などなど。「長幼の序」などは死語だろう。「家父長制」は倒すべき敵の名前だった。結果、自身が頼るるべき権威が失われ、残る判断基準は自分の「感情」だけだとなった。個人の自由は守れるべきだとは想うが、それは社会が維持可能な水準でだ。人種差別、LGBT、年齢、貧富など、差別撤廃が避ければれるのはよいがなんの根拠に基づいて主張されるのか?キリスト教徒は「神の御名において」と神の権威のもとに自分があることに自覚的だったのではないだろうか?死刑廃止、力をもって対抗しなければ自分が殺される場面ですらも暴力が禁止、あるいは動物実験の廃止活動など。犯罪から自分が守られ、肉食をしながら生きているのに自分の目につくところにだけ「怒り」をあらわにする。「感情」ベースでなければ社会の維持に関する「規律」すらも犠牲にしてしまう「活動」を正当化しえない。

ドラッカーに継ぐ現代の「経営思想家」ジム・コリンズは、永続的に繁栄する「ヴィジョナリーカンパニー」ですらすべての人にとって居心地のよい場所ではないと明確に喝破している。文字通りヴィジョン、やりがい、成長する力を備えた組織は、その組織の風土に順応した従業員にとっては居心地良く、満足いく処遇が得られる。しかし、はまらなければ苦痛以外のなにものでもない。コリンズは、「一定の規律が十分に共有すれ、守られている中でこそ自由、権限移譲がなされる」という趣旨のことを書いている。実は、国家レベルについても同じではないだろうか?

とすれば、これはら強制的に「組織風土」を強制する強権的国家が繁栄するというイシグロが主張するメカニズムが理解される。あるいは、これまでは地理的な条件、雇用の制限によって実現できなかった「強い者だけが強い者のための国家に順次ずる組織を形成する」可能性が示唆される。おそろしい未来に私には思える。保守主義である私にとっては一時代前の「規律」「権威」が重んじられる社会の方が好きだとしか思えない。

資本主義のダークサイド:生ワクチンと不活化ワクチン、mRNAワクチン

@J_Sato さんのご指摘に恐れおののいている。J_Satoさんが紹介してくだったTEDによると生ワクチンはヒト本来の「生命力」としか言いようのない力を引き出し、アフリカの研究において幼児の死亡率を明らかに下げいてるのだと。一方、不活化ワクチンは単独のウイルスには対抗できても、「生命」の過程全体からみればランダム化実験で逆に幼児の死亡率があがったというのだ。しかし、世界はすでに不活化ワクチンに移行している。この上、今回の新型コロナウイルスワクチンとしてmRNAをつかった「オーダーメイド」ワクチンが一般化したら資本主義のダークサイドが顕著になりかねない。

大変、重要なのでTEDの動画へのリンクを再度貼っておく。ベン教授とお読みすべきなのだろうか?彼女の大規模なランダム化統計研究で生ワクチンと不活化ワクチンで明らかに生存率が違うのだと主張されている。

www.youtube.com

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DTPワクチンは不活化ワクチンだと。スピーカーのベン先生はコペンハーゲン大学の先生だと。TEDのご主張の論文は私のなまなかな検索では見つからなかった。あとでよく調べる。Google翻訳で日本語にした。

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Professor Christine Stabell Benn - EDCTP

つまりは、不活化ワクチンの方が目先の効果があり、感染症を引き起こすウイルス毎に大きな売上が期待できるので、製薬会社は生産したい。一方、生ワクチンの方が生存率をあげる統計があっても従来の売上を伸ばすことにはならないので関心を持たないのだと。さらには、生ワクチンが死亡率を下げるメカニズムもまだ説明できていない。

恐ろしい指摘だ。

生ワクチンのBCG接種国である日本ではmRNAによるワクチンは不要ではないかと今回の大規模抗体検査の結果からも考えられる。

たぶん、近々J_Satoさんが詳しく書かれるだろう。それでも、今書いておきたい動機がある。

私はこの10年余りビル&メリンダ財団のポリオ撲滅運動を興味深く拝見してきた。もうほとんどの国でポリオは撲滅されつつある。昨年、アフリカ大陸ではポリオが根絶されたとの宣言も出た。ちなみに、さきほどのTEDの冒頭は新生児へのポリオの生ワクチンの投与の場面から話が始まる。違和感を感じていたのは、長年生ワクチンを使ってここまでの成果が出ているにも関わらず温度管理が難しくコールドチェーンを確立しないと接種できない不活化ワクチンに変えなければ根絶はできないという論調に変わったことだ。陰謀論を取るつもりはないが、ここに今回の新型コロナウイルスのmRNAワクチン実用化の動きを重ねるとあまりに符号する。

昨年、5月のビル・ゲイツ氏自身の動画だ。

www.youtube.com