今頃「ヴィジョナリーカンパニー」、ジム・コリンズにはまっている。ここにカズオ・イシグロの問いの答えがあるように私には思える。
イシグロの指摘はまさに現代社会の本質をついている。
それでも私たちは、真実がきちんと伝わるすべをなんとか考えなければいけません。それがセンセーショナルだから、とか、目立つから、とか、怒りに満ちているからという理由ではなく、尊敬の念から注目を集めるものが必要です。私たちは何とかしてもっと思慮深いものを作っていかなければならないと思います。
戦後の世界は、ほぼありとあらゆる「権威」を破壊してきた。宗教、理想主義的政治(イデオロギーといってもいい)、地域社会、家族などなど。「長幼の序」などは死語だろう。「家父長制」は倒すべき敵の名前だった。結果、自身が頼るるべき権威が失われ、残る判断基準は自分の「感情」だけだとなった。個人の自由は守れるべきだとは想うが、それは社会が維持可能な水準でだ。人種差別、LGBT、年齢、貧富など、差別撤廃が避ければれるのはよいがなんの根拠に基づいて主張されるのか?キリスト教徒は「神の御名において」と神の権威のもとに自分があることに自覚的だったのではないだろうか?死刑廃止、力をもって対抗しなければ自分が殺される場面ですらも暴力が禁止、あるいは動物実験の廃止活動など。犯罪から自分が守られ、肉食をしながら生きているのに自分の目につくところにだけ「怒り」をあらわにする。「感情」ベースでなければ社会の維持に関する「規律」すらも犠牲にしてしまう「活動」を正当化しえない。
- 作者:ジム コリンズ;ジェリー ポラス
- 発売日: 2014/08/29
- メディア: Kindle版
ドラッカーに継ぐ現代の「経営思想家」ジム・コリンズは、永続的に繁栄する「ヴィジョナリーカンパニー」ですらすべての人にとって居心地のよい場所ではないと明確に喝破している。文字通りヴィジョン、やりがい、成長する力を備えた組織は、その組織の風土に順応した従業員にとっては居心地良く、満足いく処遇が得られる。しかし、はまらなければ苦痛以外のなにものでもない。コリンズは、「一定の規律が十分に共有すれ、守られている中でこそ自由、権限移譲がなされる」という趣旨のことを書いている。実は、国家レベルについても同じではないだろうか?
とすれば、これはら強制的に「組織風土」を強制する強権的国家が繁栄するというイシグロが主張するメカニズムが理解される。あるいは、これまでは地理的な条件、雇用の制限によって実現できなかった「強い者だけが強い者のための国家に順次ずる組織を形成する」可能性が示唆される。おそろしい未来に私には思える。保守主義である私にとっては一時代前の「規律」「権威」が重んじられる社会の方が好きだとしか思えない。