HPO機密日誌

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

愛と嫉妬が、信頼、所有、法を産んだ

男と女の愛が人の社会と呼べるほどの信頼の基盤を産み、嫉妬が所有を発生させ、ハラスメントが法概念を生んだことを論じたい。

不十分ながら、男と女の愛が信頼の基盤であることは、先のエントリーで論じた。では、なぜそうなったのかをここでは話したい。

hpo.hatenablog.com

目次

ポロメオの結び目モデル

嫉妬がなぜ所有を発生させるのか論じたい。それは、男女間の愛が不完全であるから。桃知さんのポロメオの結び目に戻ろう。

天鬻 - HPO機密日誌

先のエントリーとは矛盾するように聞こえるが、人は長ずるにつれて人を信頼しなくなるものだ。親子、正確には母子関係においてのみ、幻想として想定される一体性、絶対の信頼、無償の愛があったと人は信じている。いわば、このポロメオの結び目すらが分化しておらず3つの輪がまだ未分化な状態として人は生まれ、親に育てられる。そこには、絶対の信頼感があり、自分が与えられて育っていくという交換と経済が一体として存在している。

3つの輪として分化する、親子の関係性にくさびが打たれることによって、子供から大人へと成長していく。くさびを打たれるので、さまざまな痛みを伴いながら1つの輪が3つの輪へと分化していく。「贈与」の輪の分離、すなわち「贈与」行為の主体となった時に、人と人との関係性において大人となったと言える。また、「交換」の輪が外形的に分化しきった時、経済的に大人になったと言われる。男と女の愛とは、互いの「贈与」も「交換」も「純粋贈与」の付随物だと瞬間、擬制される。3つの輪が未分化だった幼児の時に帰る。「大人」の機能を停止させ、「子供」に帰ることによってのみ、恋愛は成就しうる。相手に対して「無償の愛」を抱けると幻想する。

交流分析において、この関係性を見てみる。

ヨロコビ、カナシミ、イカリ、ビビリ、ムカムカ。これらの5つの要素は、そのままではないが、交流分析のFC(Free Child:自由な子供)、NP(Nurturing Parent:養育的な親)、CP(Critical Parent:規範的な親)、AC(Adaptive Child:他者順応な子供)、A(Adult:大人、理性)にちかい。

「インサイド・ヘッド」(ネタバレあり) - HPO機密日誌

大人の健全な関係性は「A:大人」から始まる。儀礼的なあいさつ、社会的な地位情報のやりとりなどがこれにあたる。いうまでもなく親子関係では、「C:子供」と「P:親」の心の機能がそれぞれの主体の中で発揮され、建設的なものであれ(FC:自由な子供−NP:養育する親)、抑圧的なものであれ(AC:適応する子供−CP:批判する親)、やりとりが始める。恋愛関係においては、文脈に応じて「FC−NP」から始まる(「彼って、固い人かと思っていたけど、案外子供っぽいところがあるのね、あんなに目を輝かせてる」)。一方的にFCが男、NPが女と固定的になるのではなく、その役割がくるくると入れ替わる中で男女の仲は深まっていく(「ああ、彼女のさびしげな背中を見ていると抱きしめてあげたくなる!」)。そして、どこかで「C:子供」と「P:親」の役割が不分明になり、どこまでもどこまでもFCでいても相手が許容してくれると幻想していく。

男と女の愛が深まるについて、どこか子供じみたやりとりが増えるのはこのせいではないか?男と女が追いかけっこをしたり、水をかけあったり、ふざけあうさまは明らかに子供(FC)と子供(FC)のやりとり。本当の無償の愛ではなくとも、お互いがお互いに子供同士に還って無償の愛を模倣しあう中で、いのちのやりとりへとつながっていく。子供を産むか産まないかという選択をする時点で命のやりとりなのだとここでは指摘していく。

ポロメオに戻れば、3つの輪、特に無償贈与と贈与の輪が十分に接近してくるのがこの過程であると。

豚か女神か?

近づいたものは、いつしか離れなければならない。男女の愛と親子の愛。一般的に考えれば、前者はどこかに打算を含み、後者は無償の愛と考えられる。多くの恋愛の悲喜劇とは、この二つの混同から始まると考えれる。前述のように、男と女の愛は不回避にこの混同から始まる。

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以前、夏目漱石の「夢十夜」を引きながら男と女の関係について書いた。この箇所。

 女といっしょに草の上を歩いて行くと、急に絶壁の天辺へ出た。その時女が庄太郎に、ここから飛び込んで御覧なさいと云った。底を覗いて見ると、切岸は見えるが底は見えない。庄太郎はまたパナマの帽子を脱いで再三辞退した。すると女が、もし思い切って飛び込まなければ、豚に舐められますが好うござんすかと聞いた。庄太郎は豚と雲右衛門が大嫌だった。けれども命には易(か)えられないと思って、やっぱり飛び込むのを見合せていた。ところへ豚が一匹鼻を鳴らして来た。庄太郎は仕方なしに、持っていた細い檳榔樹(びんろうじゅ)の洋杖で、豚の鼻頭を打った。豚はぐうと云いながら、ころりと引っ繰り返って、絶壁の下へ落ちて行った。庄太郎はほっと一と息接(いきつ)いでいるとまた一匹の豚が大きな鼻を庄太郎に擦りつけに来た。

夢十夜 - 暇つぶし青空文庫

この豚は次から次へと再現なく出てくる。しまいには、庄太郎は重い病になってしまう。「夏目漱石の妻」 第1回・第2回 - HPO機密日誌を見た後であると、この「豚」という妻に対する評価はあまりに不当だと言いたくなるが、以前のエントリーをそのまま引くにとどめる。

まことにまことに男と女の話はかならず命のやりとりにつながる。それは「夢十夜」のとおり。そして、人として生まれてきてその問題を避けて通るわけにはいかない。いや、避けて通る方が地獄への道に直結している。

妻は豚か?それとも、女神か? - HPO機密日誌

豚のようにうんざりする存在であっても、恵みを与えるてくる女神(男神)であっても、男と女の関係はどこかで「いのちのやりとり」に行き着く。しついこいようだが、どの道を通ってもここにたどり着く。なぜなら、男と女の愛は無償の愛の擬制だから。このことを、「擬制」と「豚と女神」の関係をさきのポロメオに矢印として入れてみることで示す。

ポロメオ、愛、経済

愛の果てに結婚に至った時の「愛の擬制」が女神の神性の獲得と喪失、「結婚経済」が「豚」の現実を示すのはいうまでもない。男と女は既に大人だ。子供ではない。お互いがお互いに対して、無償の愛を無限に注ぐことはできない。お互いがお互いに無償の愛を欲望しながらも、その成就が不可能だとどこかで理解する。この矢印のように、引力と斥力がほどよく働き男と女の関係性が維持される(どれだけの期間かは別の問題として・・・、豚と女神の間をいったりきたりしながらも・・・)。

それでも、この引力と斥力のつりあいにおいて、ポロメオの3つの輪が分化してから初めて男女の愛において外形化された信頼がここで生まれた。

嫉妬と所有

男と女の愛は擬制でしかない。擬制が不可避にもたらす亀裂を、意図的に相手に使えば、昨日論じたようにハラスメント、暴力となる。意図せざるものであり、意識化されていない互いの裏切りは、狂気へとつながる。

hpo.hatenablog.com

ハラスメント、狂気への契機はいうまでもなく嫉妬だ。男女の愛の結果としての嫉妬からいくつの悲喜劇が生まれた来たかは知らない。これまた類推を許されれば、人類の歴史、人類の数だけあると言えよう。逆に言えば、まさにこの嫉妬の結果として家族が誕生した瞬間からネアンデルタール人と私達人類の先祖との間の運命を分けたのだと主張したい。

ネアンデルタール人は猿と同様の群れの形態であったのではないだろうか?アルファメールと女子供の群れ。それが、道具の進歩により群れと群れとの争いの激化してきた。これまではと圧倒的に死傷率があがったのだろう。戦争の発生だ。より多くの男を取り込まざるをえなくなった。結果、乱婚を許容する群れの状態が発生しネアンデルタール人の中で留まった。であるがゆえに、大脳も、両手も私達同様に上手に使えたのに違いないのに、経済を成長させられなかった。文明を発祥させることができなかった。

いくたのハラスメントと暴力の果てに、「家族」を制度化することに成功したのが私達の先祖ではないだろうか?男と女の愛という狂気を含む危険な力は、本能が壊れてしまった種である人類にはどうしても必須だった。この愛という狂気を自分達の群れの中で飼い慣らすには、儀礼を産み出すしかなかった。男が女が対で所有され合う関係を群れの中で認める行為が結婚となり、家族の単位の形成へと進んだ。男が女を、女が男を所有し、家族で暮らすにいたり、相手への愛を外物に投与することによりさまざまな「所有物」の概念が生まれたのではないだろうか?群れの中で、男と女の狂気を封じ込めるためには、儀礼が必要であったし、それが一般化して、群れのルール、部族のルール、社会のルールへと変わっていった。男と女の狂気を封じこめる力が儀礼の根源であり、法律の淵源なのだ。


素描もいいところだし、人が読んでわかるしろものではないが、私が現在至った人の世の成り立ちについての三日間に渡る考察を一端ここまでとする。よくよく咀嚼してまたトライしたテーマである。

この3日間のエントリーを桃知さんに捧げたい。