昨日は、信頼が基盤としてあって初めて専業化が起こり、豊かさが生まれることを論じた*1。今日は、その裏面に存在する力について語りたい。愛についてだ。
アダム・スミスは人の倫理性と直接市場をつないで見るべきではなかった。人の生産性向上こそを見るべきだった、声高に訴えるべきだった。「市場」というわけのわからないものにそなわった「神の見えざる手」という神秘の力が市場を成長させたのではない。経済と社会を発展させたのではない。ましてや、アダム・スミスがよく誤読されているように「個人の欲望の解放」が市場のイノベーションを直接にもたらしたのではない。近代以降、人の自由が増し、人が人をより信頼できるようになり、一人一人が自分の仕事に専門特化して生産性を高めたので、結果として「資本主義+自由主義」は成長した。
アダム・スミスの間違い - HPO機密日誌
経済発展と豊かさの基盤となる信頼とは、私は愛から始まったと考えている。十万年前には打製石器を編み出せたネアンデルタール人は、共同作業ができなかったと聞く。出典をいま見いだせないが、獲物があれば全部の群れが駆けつけたことを示す遺跡があると聞く。脳や両手の進化は十分であっても、この個と個の信頼があったかなかったかが、ネアンデルタール人と私たちの先祖との違いであったと。想像にすぎないが、私達の先祖は少なくとも男女の役割の分担を行うことができたのだ。この最初の男女の役割分担から、現在に至るまで個と個の間の信頼性が強化され、役割分担が進み、生産性が高まり、結果として選択肢(自由)を増し続けるというよきスパイラルをたぶん万年の単位で続けて来れた。
愛こそが大切なのだ。ここで大切なのが、信頼の基盤となる無償の愛、ももちさんのおっしゃる「純粋贈与」だ。個と個の愛ははかない。それを、あえて自身の根源、母親から授かった乳のような純粋贈与だと全面的に信頼できたかどうかが大切。
ももちさんがいくつも考察されているよに、部族民の経済、農業経済、資本主義経済、あるいは、その主体を個人、地域、会社、国とおいても、いずれにも「純粋贈与」を与えてくれる存在がなければ、経済行為自体はなりたたない。人の側からみれば、その経済はやはり「欲望」を原動力としている。
天鬻 - HPO機密日誌
純粋贈与を男女の間で感じられるようになったことが、役割分担できるかできないかの分水嶺であった。ネアンデルタール人と我々の先祖を分けた。だからこそ、男女の愛において通常は擬制されている純粋贈与の源を失う時、人は全てを失ったかのように感じてしまう。この文脈において、増田の痛みがひしひしと伝わってくる。
人の存立の基盤、人と人との信頼の基盤である純粋贈与を、他人をコントロールすたるために使用することを、安冨先生は「ハラスメント」と呼ばれた。安冨先生が、「ハラスメント」の分析をされた先にこそ、本当の「経済学の船出 ―創発の海へ」があったはずだ。*3
リアルの世界は、支配しようとする意思で混雑している。自分の意思を無理やりに通すことを「暴力」と呼びたい。愛だと口ではいいながら、愛の名のもとに相手を支配することは暴力だ。安冨歩先生がハラスメントと呼んだのは、愛の形をとって支配しようとする意思といえる。
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このハラスメントこそが、世の暴力の元であると私は考える。ありとあらゆる暴力と戦争は、男と女の愛とハラスメントに帰因すると証明したいが、このエントリーでは余白が足りない。
*2:私はこの時点では「欲望」こそが先にあると考えていた。しかし、欲望だけでは信頼は生まれない。分業も生まれない。豊富な選択肢という「豊かさ」も生まれない。人は人との関係性においてのみ、経済活動を行うことが出来る。人として生きることができる。
hidekih.cocolog-nifty.com
*3:私は個人を攻撃することをこのブログでは控えていた。しかし、敢えて名指しで主張しておきたい。本来向かうべき方向から安冨先生を堕落させたのは、深尾葉子氏であると。
日本の男を喰い尽くすタガメ女の正体 (講談社+α新書)