HPO機密日誌

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

呪術としての互恵性、贈与

「徳の起源」を安冨歩先生の「貨幣の複雑性」とからめて論じたいと考えているが、なかなか私の手に余る。自分で自分のハードルをあげているからだ。人間が社会性を獲得した時から、道徳がべき乗則的に進化を重ね、数ある行動様式から自然淘汰されて産まれたという結論を描けるのではないだろうか。そこに至る前にもっと考えておくべき問題が「徳の起源」にはたくさんある。一例をあげれば、昨日の信頼のバランスシートの問題との関連で言えば、互恵性の問題だ。

徳の起源―他人をおもいやる遺伝子

徳の起源―他人をおもいやる遺伝子

貨幣の複雑性―生成と崩壊の理論

貨幣の複雑性―生成と崩壊の理論

「徳の起源」では互恵性を成り立たせる基本的な「感情」として、贈与をあげている。人は、他人から「贈与」を行われるととても居心地の悪い思いをする。なぜなら、必ず返礼をしなければ自分が社会的な信頼を失うか、相手からの別の要求を飲まざるを得なくなるからだ。ほとんどもう「武器としての贈与」といっていい。贈与は、人間性の根本に根拠を持つ現代にも生き続ける「呪術」なのだ。この極端な形が贈与の代わりに自分の家やカヌーなどの財産をも破壊してしまうポトラックとなる。ポトラックについて初めて触れたのは、栗本先生の「パンツをはいたサル」であったかと記憶する。カール・ポランニーの経済人類学の紹介との関連であったはず。「武器としての贈与」は歩トラックの部族民の話しではなく、21世紀の現代社会を生きる私たちの「道徳感情」の問題なのだ。

パンツをはいたサル―人間は、どういう生物か

パンツをはいたサル―人間は、どういう生物か

社会を統合するパターンとして、互酬、再配分、交換の3つを挙げる。互酬は義務としての贈与関係や相互扶助関係。再配分は権力の中心に対する義務的支払いと中心からの払い戻し。交換は市場における財の移動である。

カール・ポランニー - Wikipedia

マット・リドレーは、この「呪術的」な互恵性、贈与の根底にあるのは「利己的な遺伝子」から導かれる「道徳感情」であると議論を導いていく。「道徳感情」とは、社会的動物としての個体である個人からすればほとんど本能といっていい、必ず互恵しなければならないという感情こそが社会集団を成り立たせる。結果として社会的に個体を結びつける「道徳感情」こそが、個体を超えてアリのように、ハチのように、共有する遺伝子群を増殖させていくのだと。「利己的な遺伝子」、特定の遺伝子を増殖させる行為とは、共有する社会の長期的な存続そのものを意味することに留意すべきだと私は考える。「利己的な遺伝子」のふるまいと、社会組織を維持するための道徳の大切さは区別することができない。結局のところ、「パンツをはいたサル」とは「呪術」と言えるほど普遍的な道徳観上に基づいて社会集団を構成することに成功したサルという意味なのだ。

ここから、すべての道徳は利己的遺伝子と関連づけられ、社会集団を規定し、維持するかから説明しうることになる、・・・と、私は予想している。もっと思考が必要だ。


■追記

ちなみに、この問題はかなり長いこと考え続けて来た問題だ。少なくとも、高校生の時に「麗しい澤」の体験をしたころからは考え続けて来ただろう。この問題とべき乗則、進化論が関連してくるとは思っても見なかった。ウェブ上のエントリーとしても元々のホームページ上に99年のエントリーを見つけることができる。

こうして私には「人類が集団で生きなければならない」かつ「一人一人が欲望、欲求を持つ存在である」という命題から、「人類が社会生活を営むためには一人一人を大切にするための道徳が必要である」という結論をひきだせるように思える。これは、風土や歴史的背景などを問わず、人類が人類であるかぎり真実であろう。

・原型としての道徳
・道徳と超越的存在
・超越的存在と世俗化

世俗化される以前の人類において間違いなく「畏れ深いもの」としての「聖なるもの」の存在が、宗教、倫理、道徳の体系の「重石」として超越性の穴を埋めてきたのだろう。「畏れるもの」を失ったことが人類の近代において最大の科学的、物質的発展の基盤であり、個と集団の問題を複雑にしている「世俗化」であるように感じる。

個と全体 〜元型としての道徳〜

ちなみに、若い頃の上野千鶴子の業績は、マット・リドレーの「赤の女王」の議論と重ね合わされるべきであろう。これはもう少し先の議論としたい。備忘のためにここにリンクを置いておく。