HPO機密日誌

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

 かわいそうだったぁ、ほれたってことよ。

編集の上下記へ転載のため削除
http://hidekih.cocolog-nifty.com/hpo/2004/10/post.html


夏目漱石先生が「三四郎」(だったかな)に、「Pity's akin to love.」 という英文を訳すシーンを書いていた。当時高校生だったぼくにはよくわからない感情だった。ずいぶん時間がたってから、ある女の子の背中を見ていてすごく頼りなげに見えて、「ああ、これが"Pity's akin to love."なんだ」、と実感することができた。というわけで、ひさびさに恋愛についていろいろ考えてみましょう。

やっぱり、恋愛ってどっかエッチと表裏一体なんだろうと思う。アメリカの学者だったかが、男女が出会って3ヶ月のあいだくらいは特殊な脳内物質が出ていてえらくエッチが気持ちいい状態になるんだそうな。これは、同じ異性だと3年間くらいで完全に消えてしまうので快感がなくなり「3年目の浮気」とかへつながっていくらしい。

一方で、A10神経の話というのもある。たいがいの神経には交感神経と副交感神経がペアになっててかならずブレーカーがついている状態だけど、快感をつかさどるA10神経だけはブレーカーがないって?だから、エッチの快感とかは脳みそがこわれるまで果てがないんだそうですだ。

これって恐ろしいことですよね。どこまでも快感にのめる込むことが出来る上に、それを止めることもできない。渡辺淳一の小説ではないけれど、最後の最後までいってしまう恋愛というのもこういうところから来るのかもしれない。

大体、男と女の関係で危険でない関係ってあるのかな、とも思います。よく「遊びだ」とか「結婚するんだ」とかいろいろ恋愛の深さを表す言葉ってあるけど、男女の関係ってのは、結構常に刃の上をわたりあるいているような、綱渡りの綱を右にゆれ、左にゆれしながらバランスをとるような、そんなあやういものが常にあるやに感じられます。それとも、何人かの人にとってはそれが一番スリリングな「遊び」なのかな?危険があるからこそ遊びだと思ってしまえるのだろうか。安定志向の私には深すぎてわからないことだけれど、そういうリスクがあるというのも「性=生」という生命にとってもっとも深い使命にかかわる部分にからんでいるから、恋愛というのは難しいんだろうね。

そうそう、この前突然発見したんですが、女性の唯一の弱点って安定を志向してしまうことでは?実はスタミナも気の強さも、下手をすると決断力も男性よりすぐれている女性がいっぱいいるのに、それでもみんな男がとなりで寝ていることに安心感と安定感を感じている。男がとなりで寝息をたてていることに慣れてしまう。

過去のことやら未来のことを心配して今の幸せを不安でぬりこめてしまうというのは、女性の悪いくせだと思う。これまた森瑶子を読んでそう思った。それも安定を志向しすぎるからだと思うんだけどな。安定は完璧でなければいけないと思うから、逆にバランスをくずしがちなのでは?

逆に、男ってあんがい安定を志向しないせいか、男女の仲であんまり心配しない。今満足しているのなら不安になったりしない(すくなくともぼくは)。女性からみると無神経だと思われがちなのも、この辺の差であるような気がする。

そんなこんな深い問題、浅い問題、下世話な問題、哲学的な問題を含みながら、それでも恋愛は人間の存在自体にかかわっているはずせないエレメントでしょう。そもそも、恋愛は男と女がいるから成立するわけだけど、これって基本的には「情報交換」が元だったと気付いた。人間からさかのぼること15億年以上前に、まだわれわれの先祖がアメーバみたいな単細胞生物だったころ、単体でもっている情報より他の仲間の持っている遺伝子情報を取り込んだほうが有利だと気付いた連中がいて、それで遺伝子情報を交換しあったのが、オスとメス、そしてセックスの最初だった訳ですよね。だから、男女の恋愛というのも互いに持っている情報の落差が大事。しかも、見た目だの財力だのおっぱいの大きさだの生き残るために魅力的な「情報」をもっている異性との「交換(交歓)」が一番快感をもたらし、ついには有利な子孫を残すのに役立つ。もう情報交換を十分にしてしまい、かつその結果(=子供)が出てしまうともう恋愛感情は必要でなくなってしまうんですね、残念なことに。さびしい限りです。

でもね、中国だと「魂と魄」、仏教とかヨーガとかの「歓喜仏」、ギリシア神話アンドロギュヌスとか見ていると男女というのは存在のベクトルの差であるような感じもします。「魂」というのは、常に天上を目指す人間のエレメント、そして「魄」というのは地上につなぎとめておこうというエレメント。そして、男性にも女性にもこの「魂と魄」があるんだそうですが、男性の方が「魂」が強く、女性の方が「魄」が強く量が多い。そして、男女の交歓(=交換)を通じて男の魂と女の魂、女の魄と男の魄がそれぞれ呼び合い、互いに調和するときに初めてまつたき存在としての人間になれるんだそうです。歓喜仏というのは見たことがあるかな?象の形をした神様が騎乗位というのかな、座りながらのセックスの形をしているあれです。アンドロギュヌスは両性具有体で、あまりに完全な存在だったので嫉妬した神様に男と女に分離させられたという神話です。天上を目指すベクトルだけでも、地上にあろうとするベクトルだけでも人間はパワーを発揮できない。両方の調和が大事なんだと、しかもそれを本当の意味で調和させるのは歓喜仏が象徴するように男女のセックスしかない。

と、いう考えの延長線上で田口ランディを読んでちょっと(少なくとも頭の中では)男の女の関係からその先へ突き抜けられる方法を示されたような気がしています。ひるこのようになにか自分の中で形にならなかったものが、かたちを採り始めているような気がします。田口ランディのエッセイによると既刊の「コンセント」、「アンテナ」ときて次は「モザイク」というタイトルらしいです。「コンセント」は受容する性の象徴、「アンテナ」は虚無へ向かい突き出たファロスの象徴(ほんとかな?)、そして「モザイク」は二つの要素が混沌と交じり合おうとするさま。だから、次の本でとうとう「魂魄」合わさった境地が描かれると私は期待しているんですけど、どうかな?そして、それこそが僕が期待する恋愛論の結論になると思う。

やっぱり、もっと実際の現実の中で突き抜けたい。どろどろしたまとわりつくような、うんざりするような現実の中で自分をもっともっと解放していきたい。恋愛とかセックスとかも、もっともっと大きなプロセスとエネルギーの流れの一部なのだから。

作成 2001.2.18
改訂 15/12/31