「明暗」はお延と津田の視点で書かれている。伊藤計劃の「殺戮器官」が薬で思考制御されたシェパードの視点で書かれているのと同じだ。お延と津田は「自由恋愛」の罠によって思考制御されている。
- 作者: 夏目漱石
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よござんすか、あなた方お二人は御自分達の事よりほかに何(なん)にも考えていらっしゃらない方(かた)だという事だけなんです。自分達さえよければ、いくら他(ひと)が困ろうが迷惑しようが、まるでよそを向いて取り合わずにいられる方だというだけなんです」
お延と津田の「思考制御」された視野狭窄の人物批評が錯綜する中で、私には真実だとひびいたのはお秀の言葉。
「兄さんは自分を可愛がるだけなんです。嫂さんはまた兄さんに可愛がられるだけなんです。あなた方の眼にはほかに何にもないんです。妹などは無論の事、お父さんもお母さんももうないんです」
夏目漱石は、いくつも恋愛小説を書いてきた。明治から大正にかけての男女の恋愛の形だ。自分で自分の連れ合いを選択できる自由が与えられたときに、どうなるのか?友人から女を奪う恋愛の形や、愛にとらわれ続けた夫婦の形。恋愛が燃え尽きて灰になった形が取り上げられた。私は恋愛至上主義のいきつく先が、「ただ愛するのよ、そうして愛させるのよ。そうさえすれば幸福になる見込はいくらでもあるのよ」というお延の言葉に集約されている気がしてならない。
自分だけの事しか考えられないあなた方は、人間として他の親切に応ずる資格を失なっていらっしゃるというのが私の意味なのです。つまり他の好意に感謝する事のできない人間に切り下げられているという事なのです。あなた方はそれでたくさんだと思っていらっしゃるかも知れません。どこにも不足はないと考えておいでなのかも分りません。しかし私から見ると、それはあなた方自身にとってとんでもない不幸になるのです。人間らしく嬉(うれ)しがる能力を天(てん)から奪われたと同様に見えるのです。
本来人は恋愛関係だけで生きていけるわけではない。お秀のいうように隣人とのあたたかい関係や、親兄弟との血のつながりなど豊かなソーシャルキャピタルに人は支えられている。人として生まれてきた使命は、恋愛だけでは全うできない。たとえば、同じ漱石の「こころ」が示すように、恋愛の結末は自己否定にしかならない。それでも、恋愛を選ばざるを得ない人がいるのはこれもまた真実ではあるのだが。
「兄さん」とお秀が云った。「これを見て下さい。ちゃんと紙に包んであります。お秀が宅(うち)から用意して持って来たという証拠にはなるでしょう。そこにお秀の意味はあるのです」
お秀はわざわざ枕元の紙包を取り上げて見せた。
妹が兄に示す親愛というよりも、人としてのあるべき姿を親兄弟を超えてお秀は示したかったのだと私は感じた。