マズローのピラミッドを上に登ろうとするのは、私だけでなくあなたも、あなたも、そして大小を問わずあらゆる組織が、上へ上へ向かっていると考えると違う世界観が見えてくる。
まずは、復習から。
自己実現理論 - Wikipedia
- 生理的欲求
- 安全の欲求
- 親和(所属愛)の欲求
- 自我(自尊)の欲求
- 自己実現の欲求
今は時代は、自己愛を確立するところから始まるのだろう。「豊かさの矛盾」とかしばらく前に言われていたような気がするが、自己愛を形成することすら難しい子ども増えているのは事実なのだろう。自己愛とは、生理的レベルの苦痛の裏返しであるのかもしれない。「1」と「2」の段階を何歳までに確立できるか、できないのかがまず第一の関門なのだろう。
人は社会的な存在であり、自然環境からかけはなれた「社会」という文字どうり人工的な環境でしか生きていけない。人は必然的に社会的生き物であり、社会から認められなくては生きていけない。所属感を求める存在でなければ、愛を与えられなかった赤ん坊のように社会の中では生きていけない。
社会的存在、愛される対象となるためには、まず自分が相手を愛する必要がある。ここを自覚できるか否かが、次の関門なのだろう。もし「自分は自分の生理的欲求、安全を守ることがなにより大事だ」と十分に確信することができ、他者に対して最低限共感する力があれば、人を殺すな、人から盗むなという課題を引き出せる。「自分が自分を大事と思うくらい、ある人はその人自身がなにより大事なのだ。」と感じられるかという最低限の共感性なのだが、これすらも難しくなっているのは事実なのだろう。
いつぞやの贈与モデルでないが、「分け合えばあまり、奪えば足りない」、贈与のみが自分にとっても相手にとって価値を膨らませる。人を愛することだけが社会を豊かにする。自分への愛をもらえる。
しかし、人に愛を与えるためには人は社会に生まれ直さなければならない。ここが罠なのだ。生まれ直せなければ、ハラスメントが生じる。人を欺き、盗み、おとしめる。人をディスカウント、ディスレスペクトすれば、自分が社会からディスカウントされ、ディスレスペクトされ、ハラスメントがパーコレーションする。
そして、人は「子」をなす。
生物的な子でなくとも、社会というネットワークの再生産にかかわる仕事をする。それが、自己実現なのだ。自己実現とは、どこかで見つけるものではなく、子をなすように自分で創り上げるものなのだ。
また、生まれ直す度に個人、家族(親との関係)、社会(学校、職場、あらゆるグループ)、国(そして国と国との関係)とレイヤーが移って行く。こうして人は「子」を通して、新たなレイヤーの社会ネットワークに参加する。そして、新たなレイヤーにおける五段階欲求の最初から生き直す。
ただ、生まれ直しを繰り返しながら、より大きなレイヤーに進めば進むほど、メタな構造になっていく。それ以下のレイヤーを捨象してしまう。それは、それでひとつのわなであり、悲劇なのだ。極論してしまえば、「前進あるのみ」で進むと、好むと好まざるにかかわらず、世界帝国、世界宗教へと到達する。これらは最も上部の創発であり、人のネットワーク自体の自己実現なのだ。
もちろん意思をもってどこかのレイヤーにとどまることも可能だ。例の創造的無能と言える戦略だ。
そして、いずれのレイヤーにおける創発現象=組織構造も、そもそもが人の欲求の段階から始まっている限り、一人の人間で起こり、一人の人間で滅ぶことが宿命となる。
こうした視点に立つ時、個人の行動から国際関係までをマズローの欲求五段階説で説明することができるかもしれないことに気づく。そして、全てのレイヤーを説明しようとする学問としての経済学の存在を発見する。ギリシア語はしらないが、働くという意味が経済学の語源ではなかったか?マルクス経済学でこりてしまったのだろうが、逆に個人の行動、ありうるべき欲求の体系を提案する学問としての経済学の可能性を感じる。それとも、それは全く別の統合的な社会科学の分野となるべきなのだろうか?なんというか、脳科学からネットワーク、非線形、グループダイナミクス、創発、経済などを包含する新たな倫理学、いかに生きるべきかという意味での哲学、あるいは信条体系の構築という意味での宗教体系があってもよいように思われる。