HPO機密日誌

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

すべてはありとあらゆるリソースの幸せな配分のためにある

マルクス経済学は、人の理性で幸せな配分を決められると仮説を立てたが破綻した。

それ以外の経済学はあと追い的に中央銀行や為替の仕組みを作ることにより繁栄と必要な安定をもたらしたかに見える。


うーん、なんか考えがまとまらん。

また今度の課題にとっとこっと。

そういえば、昔こんなの書いた。

http://d.hatena.ne.jp/hihi01/20060120/p1

昨日の記事の続きでもある。

http://d.hatena.ne.jp/hihi01/20070311/p2


経済学から個人個人の倫理を規定することは可能だろう。いや、マルクス経済学はそれを目指して破綻し、自由主義の下での諸経済学はそこを野放図にしたから繁栄しているのか?人が人の幸せな資源配分ができるとすること自体が非人間的なのか?

しかし、CELLの話しでないがまもなく途方もない計算資源を人類は手に入れ、認識論から気象から社会現象までシミュレートできるようになるだろう。

しかも誰もがそうした計算資源と安価なネットワークにアクセスできるようになった時、幸せな資源配分が共有できれば、経済学から規定される倫理も演繹可能ということになる。いまの下手な企業の倫理学より説得力のあるモデルが構築できそうに思う。

比較経済倫理学とでも呼ぶべき分野を真剣に考え始めてもよいのではないか?それともそれは例の映画の世界なのか?