ひろゆき氏の発言が話題になっていると言うので、今更ながら読んだ。この辺が問題になっているのだろうか?
フェミニズムって言葉を使う人のなかに、「男女平等がいいよね、同じようにしたいよね」という人と、「女性の権利を増やしたい、そのために男性の権利を制限したとしてもいい」という人が両方いることが問題だなと。
もし男女を入れ替えて後者と同じ考えの男性がいたら、それは女性を差別してる、ただの差別主義者ですよね。
ひろゆきさん、どうして「今の日本では“フェミニズム”って言葉を使わないほうがいい」のですか? | ハフポスト
そもそもの認識として長い間、女性は「選ばれる性」として存在してきた。だから、女性側は「力」以外の観点から特別な存在になることが生まれたときから期待されてきた。以下、「選ばれる側」としての性を女と書くが、弱男性という存在もあるので男でも他の性を選択した人と読み替えても構わないように書く。
一夫多妻の動物では、条件にめぐまれた母親はオスを 多く産むのに対して、恵まれない母親はメスを多く傾向がある、という現象があるのではないかという仮説である。 トリヴァース=ウィラード仮説
トリヴァース=ウィラード仮説と男尊女卑の起源 - HPO機密日誌
シンデレラの物語が典型的であるように能力に恵まれなくとも、美貌や、やさしさにより「王子様」に選ばれるという検証されつつある仮説だ。トリヴァース=ウィラード仮設がすごいのは、シンデレラストーリーは人間特有でないということを証明しているところだ。
女が知的能力や、他を威圧する身体能力に恵まれていなくとも、「選ばれる」ためには特別な存在あるというオーラを身にまとうことだ。「女は謎」であることが最も自身を魅力的に見せる。明確な力は説明可能であり、数値的な比較になってしまう。しかし、「謎」は謎であるがゆえに数値化、比較できない。比較できない力こそが最強なのだ。シンデレラの王子様はシンデレラの何を知っていただろうか?父を失った?姉たちからいじめられた?働きもの?やさしい?舞踏会で踊っただけではなにも伝わらない。靴の片方という謎だけを残して消えていったのだから。
よって、女は自分の魅力の源泉である「謎」の力の限界を試そうとする。自分の男に対してどこまでもわがままになっていく。怒る理由がなくとも、自分の存在をアピールするがために相手を叱る、相手を否定してみるというモンスターに成長していく。結婚していた20年間このことは十分に味わった。
歴史的に見れば保守を自称する私から見ても女性の選挙権・参政権活動としてのフェミニズムは意義が十分にあった。性的な嗜好を認めさせる運動までも私は同意する立場だ。しかし、リソースに恵まれた現代におけるフェミニズムはひろゆき氏が指摘するように自分が特別な存在でありたいという女性の「謎」面がどうしても出てきてしまう。法的な平等は、法の精神から行って特別な存在を認めない。すべての男女、あるいはその他の性的な嗜好者においても平等でなければならない。したがって、フェミニズムは法的な運動にとどまらず、自己を説明することができない「謎」の運動へとモンスター化していく。冷徹な論理と自己の厚生がなにであるか理解されているリベラルフェミニストとはこの意味で対極の存在となる。
男女間の平均的な違いを強調するよりはむしろ男女間の類似性を強調し、パーソナリティーや性格における性差の大部分は、社会のジェンダー構築に起因すると位置づけている。また、男女双方に向けて、両性具有的な単一の美徳群を奨励する傾向がある。リベラルフェミニストは、〔男女にたいする〕階級的な社会的役割と権利を裏付けしかねないような、性差についての強い主張を拒絶する。しかし一方でリベラルフェミニストは、その他の点では、男女それぞれに良き生(good life)について特定の考え方を奨励することを避け、かわりに、個々人が最も適した生き方を追求するための、より広範な中立性とプライバシーの領域があることを擁護しようとする。
フリーセックスから #MeToo が生まれたのか? - HPO機密日誌
しかるに、最近のウェブ上のフェミニズムと称される運動は靴がどうとか、身体の強調がどうとか、現実の言動からかけ離れている気がしてならない。私は人事関係の仕事を長くしてきた。しかし、かかとのあがった靴を履いてきたかどうかで人を評価したことはない。女子が女子の服装や態度についてうんぬんする相談はいくらでも受けてきた。男子側から女子の服装うんぬんという相談は寡聞にして知らない。本性から「特別な存在」であることをを求めざるを得ない女の性(さが)はフェミニズムを過激化させ、自らの謎という見えない敵に挑んでいるようにしか私には見えない。