コメントいただいて読みに行ったら、思わず印刷したら一冊の本じゃないかってくらいの分量の記事だった。つっこみどころはいろいろあれど、さすがチャーリー=鈴木謙介さんだと思った。
弱者男性とは、
macska dot org » 鈴木謙介氏論文「ジェンダーフリー・バッシングは疑似問題である」と「弱者男性」論への疑問
A.「正社員として働くのがまっとうな姿」という世間/周囲/自分の期待に応えることのできない状況にいる人びと(具体的にはフリーターなど)、
B.自らの望まざる状況(たとえばAのような状態)にいることを、自分以外の誰かに帰責して溜飲を下げる、あるいは暴走する人びと(いわゆる「ヘタレ」?)、
C.女性を含めた他者に対するアクション−リアクションをスムーズに行うことができない(と周囲から思われていたり、自分で思いこんでいたりする)人びと(≒コミュニケーション弱者)
のいずれかあるいは複合的な状態にある人のことを指しているように思われます。
政権が安定するためには、自意識過剰なため過激な政治主張にはしりやすい「弱者男性」を気にかけておく必要があるということを鈴木謙介さんは主張されている。「男性学」という言葉が適切かどうかはあるにしても、女性とのバランスにおいて男性側が不公平さを感じる状況にある現在の日本というのは、あやうい。
「弱男性」という問題から離れれば、世代の差を初めて感じた。
↑のブログの方も、鈴木謙介さんも、コメント欄で活発に議論された赤木さんも、ほぼ1975年前後生まれだ。彼らには、地域性、あるいは「田舎に帰る」意識が皆無なのだ。私の世代ではまだ「田舎」、「実家」は大きな問題であった。周りで「いざとなったら田舎へ帰るさ」とか、「実家から帰って来いとしつこく言われている」というような悩みが聞かれていた。言葉が言葉以上のしがらみを含んでいた。
さてさて、鈴木健介さんの世代が生まれた1975年に川又千秋は「夢の言葉・言葉の夢」をSFマガジン誌に連載していた。川又は、「死の棘」の島尾敏雄を読み解いた上で、「70年代の水平器」という言葉でこれから生まれ来る子ども達の世界観を予感していた。彼の予想はすっかり現実になった。

- 作者: 川又千秋
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 1983/11
- メディア: 文庫
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ちなみに、この本のタイトルでぐぐったら、野阿梓のサイトが出てきた。
たとえば、かつて、少女漫画の文脈について語ることは、恐らくは悪い冗談の一種と受けとられていたに違いない……。
川又千秋がこういったのは七五年初頭のことである(「夢の言葉・言葉の夢」)。
(中略)
萩尾望都
2 ou 3 choses que je sais de la SHOJO-MANGA
たとえばマンガをかく場合に、わたしは嫌いな人とかタイプってのを、かくのがものすごくいやなわけです。汚いもの、汚くないものとか、ずいぶんたくさん、世の中にはいろいろあるわけなんですね。ところが文章のほうは、まあ、日記に書くなり単に活字にするなりでしたら、なんでも書けるわけ。でも、マンガでは絶対かけないわけ、手が拒絶反応しちゃう。
吉本隆明
……つまり、もともと少女マンガっていうのはこういう世界はかいちゃいけないんだみたいなものがあって、かかないわけじゃないでしょう。
萩尾
いや違います。
吉本
それじゃ逃避じゃないと、ぼくには思えますが、どうでしょうか。……それがどんな不健康な世界であろうとなんであろうと、ぼくは逃避じゃないと思います。
別に1975年以前は言葉と生活がしっかり接続していたと主張はしない。そう、源氏物語だって1000年前の少女漫画だ。言葉は生活から遊離している。
「田舎、地域社会、血縁」などから「中央、グローバリズム、希薄化する絆」への移行は今に始まったことではない。コスモポリタンは、古代ローマの末期にもいっぱいいた。
だが、それにしても、「弱者男性」という言葉自体から、あるいは「非モテ」、「非コミュ」の議論自体から、少女漫画的な情熱があふれ出ている。生活から遊離した言葉が、言葉だけで完結している世界だ。
これを書いていて、私は十分に古い世代に属する証拠なのだと、改めて発見した。
*1:読みやすくするために改行しています。HPO=ひでき