なんとはなしに、現代日本において概念的純粋さの高いものほど崇高であるかのように扱われている時代があった。例えば、キリスト教の信仰は、日本土着の葬式仏教や、「なにがおわすとはしらねども」式の神道よりも、上級であるかのように受け止められがちだ。しかし、現代においてその歴史の始まりが神話時代と渾然としてしまっている国家は日本以外存在しない。私達日本人は堂々と自分達の歴史を誇り、神話時代から続く国の在り様に胸をはってよいのではないだろうか?
聖書における「神」とは、あまりに苛烈だ。そして、人の上に「超越的」に存在している。この神の在り方はヨブ記において非情に明快に語られている。神は人が産まれても、死んでも、喜びも悲しみもしない。神はただ在る。その在ることを受け止めた人間のみが「義」とされる、実存の根拠を与えられるように私には思える。ユダヤの民にとって神は常に怒れる存在なのだ。
7 しかし獣に問うてみよ、それはあなたに教える。空の鳥に問うてみよ、それはあなたに告げる。
8 あるいは地の草や木に問うてみよ、彼らはあなたに教える。海の魚もまたあなたに示す。
9 これらすべてのもののうち、いずれか主の手がこれをなしたことを知らぬ者があろうか。
15 見よ、彼はわたしを殺すであろう。わたしは絶望だ。しかしなおわたしはわたしの道を彼の前に守り抜こう。
16 これこそわたしの救となる。神を信じない者は、神の前に出ることができないからだ。
17 あなたがたはよくわたしの言葉を聞き、わたしの述べる所を耳に入れよ。
7 なにゆえ悪しき人が生きながらえ、老齢に達し、かつ力強くなるのか。
ヨブ記(口語訳) - Wikisource
8 その子らは彼らの前に堅く立ち、その子孫もその目の前に堅く立つ。
9 その家は安らかで、恐れがなく、神のつえは彼らの上に臨むことがない。
だからこそ、現代のキリスト教においてこそマリアは被昇天されなければならなかった。
それに比べれば、天之御中主からイザナキ、イザナミの神、皇統に続く神々のなんとおおらかで、なんと人間的なことか。私は仏教徒ではあるが、日本の池に産まれ、神話の時代からのつながりを感じることができる幸せに心から感謝したい。