大変お世話になった方のキリスト教の葬儀に参列した。「コリント人への第一の手紙」が読まれた。私にとってキリスト教の本質が書かれているように感じたので引用しておく。
15:50兄弟たちよ。わたしはこの事を言っておく。肉と血とは神の国を継ぐことができないし、朽ちるものは朽ちないものを継ぐことがない。 15:51ここで、あなたがたに奥義を告げよう。わたしたちすべては、眠り続けるのではない。終りのラッパの響きと共に、またたく間に、一瞬にして変えられる。 15:52というのは、ラッパが響いて、死人は朽ちない者によみがえらされ、わたしたちは変えられるのである。 15:53なぜなら、この朽ちるものは必ず朽ちないものを着、この死ぬものは必ず死なないものを着ることになるからである。 15:54この朽ちるものが朽ちないものを着、この死ぬものが死なないものを着るとき、聖書に書いてある言葉が成就するのである。
口語訳聖書 - コリント人への第一の手紙
15:55「死は勝利にのまれてしまった。
死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。
死よ、おまえのとげは、どこにあるのか」。
15:56死のとげは罪である。罪の力は律法である。 15:57しかし感謝すべきことには、神はわたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちに勝利を賜わったのである。 15:58だから、愛する兄弟たちよ。堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。主にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはないと、あなたがたは知っているからである。
思い起こせば、島尾敏雄の「死の棘」とはここから取られたのだろう。
私が恐怖するのは、finalventさんの言う高野悦子の「献身的な愛の衝動」と「死の棘」で描かれる島尾ミホの夫婦生活とが表裏の関係であるからだ。愛と嫉妬と狂気の男女関係だ。 私の結婚は破綻してしまった。高野悦子ほど性に耽溺するでなく、島尾ミホほどの情熱でもなかったが、結婚した時にはお互いの「愛」と「献身」があって結ばれた。平凡な関係であっても、互いの性の深淵に対して、蓋をすることはなかった。結果、20年と4日が経過して結婚が破綻した。破綻するほどには「死の棘」ばりの男女の間の狂気を体験した。
「二十歳の原点」の性の衝撃 - HPO機密日誌
「死の棘」とは、死の恐怖であり、生きていなながら「愛と嫉妬と狂気」の煉獄を味わうことだ。夏目漱石の芸術論のように、人の世という芸術も理想も神も永遠もない「朽ちるもの」だけの世界を生きることだ。「朽ちるものは朽ちないものを継ぐことがない」のだ。キリスト者ではない私にとって、この意味でこの世は「死の棘」に満ちている。生きる真の意味を悟ることはないのだろう。私の人生に神のラッパが響くことはない。