昨日のエントリーの答え合わせをさせてもらうつもりで、週150円、月約651円*1を払うことに同意してCakesのid:finalventさんの「夜と霧」の書評を拝読した。
本書は歴史文書というより、現代人の絶望を治療する精神療法として読まれたほうがよい。
【第6回】夜と霧(ヴィクトール・E・フランクル)|新しい「古典」を読む|finalvent|cakes(ケイクス)
これはまさしくその通りだと。本書はフランクル自身の体験を通して、「生き方のコペルニクス的展開」を語るために書かれた。
ここで必要なのは、生きる意味についての問いを百八十度転換することだ。わたしたちが生きることからなにを期待するかでなく、むしろひたすら、生きることがわたくしたちからなにを期待しているかが問題なのだ、ということを学び、絶望している人間に伝えなければならない。
夜と霧 新版 - はてなキーワード
絶望をどう生き抜くかという、フランクルのロゴスセラピーについては、ぜひfinalventさんの書評を読んでいただくのが適切かなと。
問題にしたいのは、フランクルの妻への愛。新婚9ヶ月で引き離された、当時24才の妻。
収容所の強制労働への雪道の中、フランクルは遠く離れた妻との対話を発見する。
わたしはときおり空を仰いだ。星の輝きが薄れ、分厚い黒雲の向こうに朝焼けが始まっていた。今この瞬間、わたしの心はある人の面影に占められていた。精神がこれほどいきいきと面影を想像するとは、以前のごくまっとうな生活では思いもよらなかった。わたしは妻と語っているような気がした。妻が答えるのが聞こえ、微笑むのが見えた。まなざしでうながし、励ますのが見えた。妻がここにいようがいまいが、その微笑みは、たった今昇って来た太陽よりも明るくわたくしを照らした。
これほどの愛があろうか?「愛は人が人として到達できる究極にして最高」のものなのだと、私は知らなかった。いい加減くりごとはやめなければならないが、愛とは支配されることを受け入れることだと信じていた。
女にとって男を愛するとは、男を支配する道なのだ。男を支配することにしか幸せはないと思い込むことほど不幸はない。
男の女の「明暗」 - HPO:機密日誌
フランクルの妻との対話のような愛が朝日のような「明」ならば、夏目漱石の「明暗」の由雄とお延の「ただ愛するのよ、そうして愛させるのよ」という愛はたそがれすら消え果てた「暗」だ。
男と女の愛は二人の個性で固有のものだと、「愛」の度に信じたくなる。この「愛」こそが人生を賭けるべきものなのだと。自分自身を犠牲にしつくしても、この「愛」こそが燃え上がる。燃え尽くした「愛」は、灰にしかならない。
夫婦の「明暗」 - Togetterまとめ
結局、愛とはあなたの愛する特定の人への依存ではない。自分自身の人生に対する態度なのだ。極限の絶望の状況下でも失われない愛。不在であっても、あなたに人生の意味をもたらすものが相手に対する愛なのだ。愛とは、あなた自身のすべてをもってあがなう価値があるものなのだ。
あなたはまたしても、愛する妻と語らいはじめる。あるいは何千回めかに、天に向かって嘆き、問いつめる。何千回めかに、なんとか答えを得ようと煩悶する。わたしのこの苦しみにはどんな意味があるのだ、この犠牲に、こうしてじわじわと死んでいくことに、どんな意味があるのだ。
目前にある惨めな死に最後の抵抗をこころみるうち、あなたは、いちめん灰色の世界を魂が突き破るのを感じる。最後の抵抗のうちに、魂がこの惨めで無意味な世界のすべてを超え、究極の意味を問うあなたの究極の問いかけにたいし、ついにいずこからか、勝ち誇った「しかり!」の歓喜の声が近づいてくる。
その瞬間、明けゆくバイエルン地方の朝の陰惨たる灰色一色のただなかに、地平線上にあたかも舞台の書割りのように浮き上がる、遠い農家の窓に明かりがともる。
光は暗黒に照る・・・。
愛とは人生に対する態度なのだと了解すると、道元の正法眼蔵の冒頭のこの一節が光かがやいて読める。仏法、仏道とは、あなたの人生の明暗をくっきりと浮かび上がらせる究極の愛なのだと。
諸法の仏法なる時節
すなわち迷悟あり 修行あり
生あり 死あり 諸仏あり 衆生あり
万法ともに われにあらざる時節
まどいなくさとりなく
諸仏なく 衆生なく 生なく 滅なし
仏道もとより豊倹より跳出せるゆゑに
現成公案: HPO:個人的な意見 ココログ版
正滅あり 迷悟あり 生仏あり
月約651円で、人生と愛の意味を教えてもらえたのだから、Cakesはお得かもしれない。
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*1:150円/週 × (30.4日/月 ÷ 7日/週 )
ここで、365日/年 ÷ 12か月 = 30.4日/月