HPO機密日誌

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

「ゼロで割る」と「Intolerance 〜あるいは暮林助教授の逆説〜」

非常に骨子が似ている。びっくりした。あとで詳しく書く。




ふたつとも数学者の話であり、夫婦関係の話であり、オブセッションの話でもある。「ゼロで割る」はテッド・チャンの作品で、短編集である「あなたの人生の物語」に収録されている。「Intolerance」は川原泉の作品で、同じく短編集「中国の壷」に収められている。

あなたの人生の物語 (ハヤカワ文庫SF)

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中国の壷 (白泉社文庫)

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「ゼロで割る」についてはfinalventさんが極東ブログに書いていらっしゃるのでなにも付け加えることはない。公理の無矛盾というか、近代数学が背景に盛り込まれている。

偶然だが、「Intolerance」は「÷0」というブログで紹介されていた。

こちらの物語は、暮林教授と妻の曜子、そして柳沢周の三角関係を主軸に進む。「ゼロ」では、妻のレネー・ノーウッドの方が数学者だったが、暮林教授は男だ。「ゼロ」でも、夫カールと妻の数学者以外の女性との関係も示唆されていたが大きな因子ではなかった。

そして、いずれも数学をめぐって狂気を含んだ、支配・被支配という関係が描かれる。以前川原泉の作品を読んで「愛は支配することではない」と私は感じた。もしかすると川原泉自身はそのことに無自覚ではないかと思い込んでいたが大きな間違いであったことに、本作品を読んで発見した。

どうしてもこれだけは「Intolerance」から引用させてほしい。三角関係の公理系の証明不能性は深い関係があることのひとつの証左だ。

夏の日の惰眠は最悪である。

虚構と現実を巡る鎖が無限に上昇しつつ同時に下降し円環を成すがために最悪である。

それは悪循環であり狂気である。

あらゆる公理系が、その体系内において照明不可能・決定不可能な命題を含むならば、その真理性は公理系の矛盾性にあるという仮説にあるが如くに。

たまたま同じ日に同じ骨子の物語をSF小説と漫画で読むことになるとは思わなかった。世界は奇妙なネットワークで通底している。

しかしながら、それすらも自己のうちに矛盾を含まざるを得ない。

もはや不可逆的還元にさえ可能性の類を見る事はない。



その時、理性秩序は崩壊し不透明な情念のみが残る。

故に私は総てを放棄しなければならない。自らを疎外し拘束し監禁しなければならない。

そして、それは私の中の公理系の問題と無縁ではいられない。




平成21年8月25日 追記

Dainさんが書評されているこの物語も、ここまで書いてきた2つの物語と似ているのかもしれない。まだ、未読なので宛て推量もよいところなのだが。

わたしたちは愛し合っていた。この物語の主題は、わたしが依然として妻を愛し、妻を無批判に受けいれていたときに、どのようにしてエミーリアがわたしの欠点を見出し、あるいは見出したと思いこみ、わたしを批判し、ついにはわたしを愛さなくなったかを語ることである。

http://dain.cocolog-nifty.com/myblog/2009/08/post-cb88.html

Dainさんがおっしゃっていることにはまだ先があると思う。

身勝手とかいうのではない、女は、理屈で怒らないのだ。理屈ドリブンではなく、感情ドリブンなのだ(ソース俺)。

では、その感情はどのような原因で、どう動くのか?Dainさんはわかっていてそこまでかかれなかったのだろう。

私は男なので正確にはわからない。いや、女たちもわかっていないかもしれない。実は、たいてい女が男をそしることは、愛情表現なのだ。女は男の愛情を試している。女は欠けることなきまつたき幸せに耐えられない。その幸せを、すぐに疑い始める。

「私を『愛している』というが口先だけではないだろうか?『愛している』ということは、無条件で私を受け入れているということなのだが、この男はそれをわかっているのか?」

そして、女の疑心暗鬼はこう続いていく。

「まだ私はかわいい女を演じているだけなのかもしれない。猫の皮を一枚、二枚はいで、ほんとうの私を見せたら嫌われてしまうかもしれない。私が年をとって容姿が衰えたら、この男は私から去っていくかもしれない。嫌われるくらいなら、男のもっともいやがる女の部分を見せて、それでも私を愛し続けられるかどうか試してやろう。」

というたくらみがふくらみはじめていく。

女が男のまつたき愛を疑うときに、ふたつの方向性がある。女自身に向くか、男に向くかだ。女自身に向く物語を、私は「髪結いの亭主」というフランス映画に見出した。Dainさんもお嫌いではないはず。

髪結いの亭主 [DVD]

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逆に男の愛を徹底的に試す物語は、ごく身近にもあるのだがそれは触れずにおく。ここでは前述の「助教授」をあげたい。妻の曜子は、助教授の愛を試すがゆえに助教授を破滅の縁にまで追い込む。それは、男の側から言えばもはや愛ではない。支配である。女からすれば、

「だって、『愛している』って言ったじゃない。『愛している』なら、私がいくらお金を使おうと、他に男を作ろうと、あなたは許さなくてはいけないのよ。あなたの意思なんてどうでもいいの。あなたはただ私を愛してさえいればいいのよ。」

この男を完全に支配しようとするグロテスクな女の愛も、発端は男の愛を確かめたいというごくかわいらしい動機であったのだ。女の疑心暗鬼と不安は際限がない。それを男に転嫁するとき、男のすべてを奪わざるを得ない。いや、男の全てを奪ってもまだ足りない。

「ゼロで割る」は、このまだ先にある物語かもしれない。だが、私には読みきれていない。

よって、女が群がる「いい男」は自分を守るために嘘つきにならざるをえない。女は、自分ひとりへの愛を求めるが、男は与えられない。女の男への愛はいやますばかりになるのだが、男はそれに応えられない。普通の男は「ごめん」といって終わりになる。だがしかし、「いい男」がいい男であり続けなければならないことが職業上求められる場合がある。この場合、女への愛をにおわせながら、ほかにも女がいるサスペンデッドな状態を続けるしか手がなくなる。ここから男の嘘が始まる。ま、これは特殊なケースであろう。

「嘘つきいい男」は、偶然だが葉子という女が出てくる有島武雄の小説に出てくる船旅の場面のパーサーが典型例かもしれない。

或る女 (新潮文庫)

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もう一人は、ある芸事の師匠と呼ばれた男。この男について昔話を聞いた。この話しを聞いて、「いい男は嘘つきなのだ」と確信したものだ。男の死後に、弟子であった複数の女たちが「私が一番愛されたのよ」、「なに言っているの、私よ。私は二人きりのときにそっと手を握られたことがあるんだからね」、「えっ?私もよ!」とその愛を競ったのだと言う。