HPO機密日誌

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

「夏目漱石の妻」 第4回

いよいよ、修善寺の大患漱石の晩年にさしかかる。妻、鏡子との関係やいかに。「三四郎」の美彌子を想わせる、壇蜜演じる大塚楠緒子の登場はどうなるのか?なかなか最後まで魅せるドラマだ。

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本ドラマには漱石好きが集まっていたのだろう。「文鳥」、「坊ちゃん」、「我が輩は猫である」と漱石作品の中からドラマづくりのヒントがたくさん採られている。スピンオフ、「漱石先生を待ちながら」の設定、「大正5年師走」にもきちんと意味がある。このスピンオフは単なる作品評とおふざけだけではない。

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実は、今年で漱石先生が亡くなって100年。ちなみに、処女作「我が輩は猫である」が書かれたのが1905年。比較するのも気がひけるが2005年にブログに漱石先生の「三四郎」についてこう書いた。

「三四郎」で描かれている時代といまの時代にかなり共通性があるということだ。私には、以下の4つの点が本書の書かれた100年前と気分的に共通すると感じられた。

  • あたらしいメディアは常に登場し続け、若い世代はそれに反応・適応しようとする。
  • 時代の精神、世代の差という議論はいつの時代にもある。
  • 恋愛はいつの時代にもあまりに鮮烈である。
  • 平和で自由な時代の後にも、騒乱の時代が訪れることがある。

(中略)

そして、いま私が恐れるのは「ぼんやりとした不安」を抱えながらものほほんと生活していた三四郎の後継者である我々は、またこうした騒乱の世紀を生きるのことになるではないだろうかという恐怖だ。与次郎の「ダータ・ファブラ」="de te fabula."とは、「ほかでもないあなたのこと」という意味のラテン語なのだそうだ。

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2005年からの11年あまりは漱石先生の小説家としての活躍時期とちょうど100年の時を経て平行している。時代はこの後、第一次世界大戦大恐慌、中華事変を経て、第二次世界大戦、太平洋戦争へと向かっていく。現代においても、あたかも世界は独裁国家が台頭し、経済的なブレは拡大しているように想える。

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明るいドラマであったがゆえに、漱石という時代の後に来るな暗い時代が予感されてならない。