小説で読んだときには、ワタナベの視点でしか読めなかった。直子も、緑も、レイコさんも、ハツミさんも、問題を抱えながらも、男を許す存在であったように受け止めた。この映画では、怒ったり、男性にたいする要求をそのままストレートに表現する女性たちとして描かれていた。
結構、原作と映画では違う。美男美女ばかりなのが、原作とちぃっと違うのではないかと。冒頭の直子の語る深い井戸の話しもなかった。寮の屋上から蛍を話すシーンもなかった。私の記憶では、意識不明の緑の父にワタナベが語りかける画面があったと思ったのだがない。「ギャッツビー」であったり、「魔の山」であったりする、ワタナベがつどつど読んでいる本が結構重要だと思うのだが、全く出て来ない。タイトルにも、会話にも出て来ない。菊地凛子演じる直子の歩くスピードもイメージしていたのよりずっと速い、速すぎる。
つまりは、この映画は100%の「リアルさ」、生の現実を表現しようとした原作から、無理矢理「100%の恋愛小説」部分だけをぬきだしただけなのではないだろうか?
そして、「100%の恋愛小説」として骨格を抽出すれば、映画のキャッチにもなっているように直子と緑とワタナベの三角関係になる。
この意味で、行きの電車で読み終えた夏目漱石の「門」や、この前読了した「三四郎」につらなる日本の恋愛小説の伝統にのっているとはいえる。
もっといってしまえば、小説をガラスのように砕いてから、もう一度つなげなおしたステンドグラスに見える。
それでも、緑さんが好き。
映画|ノルウェイの森