「ノルウェイの森」が「100%の恋愛小説」になるためには、ワタナベと直子と緑の三人の関係に焦点をしぼらざるを得なかった。いや、三角関係どころか、映画ではその必然性にいたる理由の説明もなく、ワタナベは直子や緑以外の女たちと寝ているので、きっと映画版のワタナベは女性受けしないだろう。男性側からしたって女性の側の意見に重きをおいた映画版はきっとおもしろくないだろう。
それはともかく、夏目漱石の「行人」を読んでいて、明治以来恋愛小説とは三角関係なんだなと思う箇所があった。「ノルウェイの森」そのものじゃないかという箇所があった。
「その娘さんは余り心配したためだろう、少し精神に異状を呈していた。それは宅へ来る前か、あるいは来てからかよく分らないが、とにかく宅のものが気がついたのは来てから少し経ってからだ。固より精神に異状を呈しているには相違なかろうが、ちょっと見たって少しも分らない。ただ黙って欝ぎ込んでいるだけなんだから。ところがその娘さんが……」
夏目漱石 行人
三沢はここまで来て少し躊躇した。
「その娘さんがおかしな話をするようだけれども、僕が外出するときっと玄関まで送って出る。いくら隠れて出ようとしてもきっと送って出る。そうして必ず、早く帰って来てちょうだいねと云う。僕がええ早く帰りますからおとなしくして待っていらっしゃいと返事をすれば合点合点をする。もし黙っていると、早く帰って来てちょうだいね、ね、と何度でも繰返す。僕は宅のものに対してきまりが悪くってしようがなかった。けれどもまたこの娘さんが不憫でたまらなかった。だから外出してもなるべく早く帰るように心がけていた。帰るとその人の傍へ行って、立ったままただいまと一言必ず云う事にしていた」
この挿入話の結末も同じだ。男と女は100年立っても変わらない。
おっと、ちょっとぐぐってみたら、山折哲雄先生も同様のことをおっしゃっている。
私が『源氏物語』の中で、その54帖全体の中で、一番関心を持っておりますのは、冒頭の葵上をめぐる強烈な人間関係、 男女の間に繰り広げられる濃密な三角関係、ということにあります。
日本語ジェンダー学会第9回年次大会 基調講演「源氏物語の背景にあるもの」
あの時代に、なぜこれ程しつこい、濃密で執念深い、男女の三角関係を描いたのか。 その文化的背景は一体どのへんにあるのかということです。それは本当に日本人我々の美意識、 今日の美意識と合致するものであるのかどうか。そういう関心が、私にはありました。そういうところで、 「三角関係」の話からまず最初は申しあげてみたいと思います。
ご承知のように、光源氏が最初に正妻としたのが葵上であります。やがて出産の場面を迎えます。それが大変な難産だ、 ということになります。なかなか子どもが生まれないんですね。そのうち周辺に噂が立つようになります。それは、 葵上にある人間の物の怪が取り憑いたために、そのために子どもが生まれない、それで難産で苦しんでいるんだ、 とこういう噂が立ちます。
ここで書くまでもなく「ある人間の物の怪」とは、六条御息所ではないかと源氏物語では描かれる。源氏と葵上と六条御息所の三角関係だ。
そして、女性二人のうちの一人が原因不明の病い、つまりは精神の病いになるということだ。この構造は、「ノルウェイの森」=「行人」の三沢の荘柔和そのものだ。
山折哲雄先生の論はこの後、藤原道長の政治的野心のからんだ三角関係へと進み、予想通り夏目漱石の描く三角関係との対比へとつながって行く。山折先生によれば、源氏物語の三角関係の原型は道長の政治支配の形であると。女をめぐって政治が動くのだと。そして、その道長の政治支配の形がその後の日本の支配政権の原型にもなるのだと。大変興味深い指摘だと思う。
しかし、夏目漱石の三角関係は男二人と女ひとりの物語であり、しかも、山折先生が指摘するように片方の男の存在ははなはだうすい。「それから」、「三四郎」、「門」を通して、三角形のひとるの頂点は非常に陰が薄い。
ああ、そういえば、「心」の最後に乃木希典の自殺の話しが出てくる。夏目漱石の作品では、政治を市井の場から見ている視線がまだある。これは小説が近代に至り政治的状況から遠ざかったことの反映なのだろうか。
時代の空気と文学が変わる度に、三角関係が男女がいれかわりながら60度ずつ回転している。そして、回転するたびに恋愛小説と政治は遠くなって行く。「ノルウェイの森」が学生運動を本質にあまりかかわらない背景にもっていることを映画を見て思い出させられた。*1政治的には夏目漱石からももっと遠い。
うーん、単なる印象でしかなかったが、案外本当に日本の文学がとらえてきた政治には、男女の三角関係は背骨のように通貫しているのかもしれない。。