HPO機密日誌

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

「錦繍」

ここのところ、猛烈に恋愛小説が読みたかった。ツイッターの広告のちょっとした恋愛漫画ですらぐいぐい読んでしまってた自分がいた。どうしようもない恋愛への渇きは五十代にもなって身体も衰えているのに変わらないらしい。

そんな中で、宮本輝の「錦繍」を一気読みしてしまった。軽い気持ちで読み始めたら止められなかった。離婚した元妻と元夫の手紙のやりとりで物語られる、恋いと愛欲と人生の真実の物語。男の不誠実さ、自己憐憫が様々な形で描かれていた。物語の背景で流れるモーツァルトが悲劇的に響く。「恋しい女」を読んで以来、久しぶりに自分の罪と汚れを自覚せざるを得ない小説体験だった。

中堅ゼネコンの二代目社長で、会社をつぶし、資産を切り売りしながら生活している。娘は一人、妻とは死別。愛人を二人もち、責任感のない生活をだらだらと続ける男の話し。理性も明晰、身体も健康でも、真摯さがない。読み終わって吐き気がした。

真摯さとは知情意が統合されていること - HPO機密日誌

男は自分の欲望を追い求め続けると醜悪になっていく。男は女の下着を洗っている位がちょうどいい。女の作男になっているくらいがちょうどいい。離婚してから10年以上。そう思ってきた。それが、どうもここのところ感情的に不安定になっているようだ。子供のことが引き金だったのかもしれない。恥ずかしいことだと思う。

「偶然の科学」

「あの」ダンカン・ワッツが書いたネットワーク思考からの社会に関する思考。本ブログのようだと書いてしまえば、あまりに不遜になるが複雑科学、ネットワーク思考から現代社会の諸問題に切り込むスタイルは「あり」なのだと。

本書は、常識とされている群衆による予測行動の正確性、インフルエンサーの存在、予測と対象のちらばりから社会的公正さに至るまで幅広い社会学的な課題を論じている。その中でも、いま現在興味をそそられるのは、インフルエンサーが存在するかという問題だ。ワッツは本書執筆当時Yahooに在籍していて、ツイッターFacebook、あるいは仮想的な音楽配信サービスなどを駆使し、インフルエンサーの存在、その実効性について実験、分析した。その結果、インフルエンサーインフルエンサーたり得るのはネットワーク側の「燃え広がりやすさ」の問題である結論であったと。多くの実験と実証例が示すのは、インフルエンサーが存在するのは偶然とタイミングの問題である特別の才能や、特別の絆ではないということだと。

社会的公正さについてはワッツ自身のネットワークに関する知見に基づき、社会的公正差を論じサンデルの主張を引く。

政治哲学者のマイケル・サンデルは近著の『これからの「正義」の話をしよう』(鬼澤忍訳、早川書房)で同様の指摘をおこない、公正や正義に関するあらゆる問いはわれわれが互いにどれだけ依存しているかに照らして(最もわかりやすいのは友人や家族や同僚や同期生のネットワークだが、共同体、国家的アイデンティティや民族的アイデンティティ、さらには遠い先祖までも含めて)裁定されなければならないと論じている。
われわれは「仲間」の人々の成果を誇りに思い、よそ者から仲間の人々を守り、必要なときは助けに駆けつける。自分と結びついているという理由だけで忠誠の義務があるように感じ、向こうがそれに報いてくれることを期待する。だから、社会的ネットワークがわれわれの生活できわめて重要な役割を演じていて、われわれを資源に結びつけ、情報と支援を提供し、相互の信頼としかるべき敬意に基づく取引を促進するのも、無理ではない。

これは、私が至ったネットワークにより価値が決定されるという知見に等しいと私には感じられる。

ネットワークにおいて、あるノードが果たす役割は、そのノードと同じ瞬間にリンクしている他の全てのノードとの関係によって、またそれによってのみ決定される。ノードは、他のノードとの関係においてのみある役割を持つのであって、単独で存在するノードには意味がない。

対話、ネットワーク、そしてマッハの原理 Mach!: HPO:個人的な意見 ココログ版

さらに、同類性、似たものが集まってくるという知見についても書かれている。これは「人は人が欲しがるものを欲しがる」という原理であるかと。

hpo.hatenablog.com

より深く読むべき、より深く理解すべき事柄がまだまだ沢山本書には存在する。最近は複雑科学、ネットワーク思考はこれ以上の進展はないとうち捨てられているように見える。私は一介の市井人にすぎないので一貫性はなく右往左往するばかりだが、社会と人間の理解に対する物理学的アプローチには新しい社会的な合意の基礎があるように思える。

「樹木たちの知られざる生活」

ある人に勧められた読んだ。仕事で木材に関わる仕事をする人は読んだ方がいいよと言われた。

この本は、科学と観察に基づき、樹木たちが連絡を取り合い、お互いに生かしあい、抑制しあい、多くの生物と共生しあう様子が描かれてる。ただし、時間の単位は100年、1000年という単位だ。当然なのだが人間の手が全く加われない原生林こそが樹木たちにとって最も適合する環境であるという前提で書かれている。人間から見た有用性はここでは大きな意味を持たない。

驚いたのは、菌糸類が樹木と共生したり、逆に腐らせたりするのだと。現実の樹木の中に、ナウシカ腐海のように菌糸が広がっているのだと。

欧州のもともとの樹木は数千年、数万年単位で形成されたと。八千年の老木も存在するらしい。日本においても神社仏閣の建築に使える檜はほとんど取り尽くされてしまった。本書の時間単位で言えば、人間文明が滅びないと、本当に原生林、樹木たちの生活は戻ってこないのではないかと思えてくる。

孤独なる戴冠

前回のオリンピックの更に前に書かれた石原慎太郎のエッセイ集。40年近く前の友達のS君の下宿で見つけた。S君は父君からもらった本だと照れくさそうに私に言った。最初の一節だけ読んで返してしまった。

1960年前後に書かれたエッセイが収められている。そして、小林秀雄大江健三郎三島由紀夫など、私達の世代にとってはもはや神話のうちの登場人物ではないかと思える人物たちとの対話、リアルが描かれている。

なぜ「孤独なる戴冠」というタイトルなのかずっと不思議に想っていた。それは、数年に渡る石原慎太郎の小説、批評、映画、自動車、ヨット、建築などを通じた青年としての冒険を重ねた果ての行き先の決着なのだと。最後から二番目のエッセイ、「孤独なる戴冠」はこう始まる。

私は今、青年について、我々自身について語りたい。我々が今、どこにいるのか、どこへ向かおうとしているのかを。

このエッセイ集全体、ましてや「孤独なる戴冠」と題されたエッセイに書かれた石原の議論のすべてに私はついて行けていない。高度成長時代と言われ、エコノミックアニマルと言われた日本全体が明日を夢視ていた時代に大変な危機感を三島などと共有していたことは伝わる。石原が大変共鳴しているヘミングウェイの「キリマンジャロの雪」に生まれた豹を差し、最後にこう書いてある。

我々は豹だ。青年はその豹でなくてはならぬ。豹が一人喰いで伝っていったのは、彼自身の個性だったのだ。たといそれが結果として間違っていたにしろ、彼はそれをそこまでいった。高い山の頂まで、勇気をもって。そしてそこに待っていたものが闘志であろうと、彼は『神の家』を極め、地上のいずれよりも高貴な死の床を得たのではないか。それこそが彼が得た孤独の戴冠だった。

この一文を見つけるために40年も掛けた私は余りに愚かであり、石原の使命感を読み解くのが遅すぎた。このエッセイの後、1968年に石原は衆議院議員となる。豹になるために敢えて神の家ではなく、政治の衆愚への道を選んだのだ。S君はご名家の出であった。もしかすると、父君はS君に政治への道、国への関与を期待してこのエッセイ集を渡したのかもしれない。いまさらの推測に過ぎないが。

ゴジラS.P.「すべてが必要だったんだ」(ネタバレあり)

Netflixで絶賛上映中の「ゴジラS.P.」は円城塔の趣味じゃね?と書いた。ところが、それは大きな思い違いで過去のゴジラシリーズにすべての答えが有ったのだと。

hpo.hatenablog.com

この方が教えてくださったと。

本作はゴジラの皮を被ったSFではなく、れっきとしたとした「ゴジラ」のメッセージを踏襲している作品でもあったのです。新しいモノを描きつつ、普遍的なモノを提示する。「ゴジラ」という古典を正しく扱った作品ではないでしょうか。

『ゴジラS.P<シンギュラポイント>』ネタバレレビュー|ゴジラと対峙した3ヶ月で僕らが見た世界 | アニメイトタイムズ

この意味でS.P.の1話の最初のモノローグにちゃんと断り書きがされていた。

私はすべて知っていたのに
意味は全くわからなかった
ここにたどり着くためにずいぶんとかかってしまったけれど
すべてが必要だったんだ

https://www.netflix.com/watch/80198461

昔からのファンにはすべてお見通しだったと。登場する怪獣はすべて過去のゴジラシリーズだとは想っていたが、ジェットジャガーまでとは!

「人間が恐ろしく愚かなこと」「ゴジラはいつか倒されること」「ジェットジャガーが巨大化すること」「ゴジラの骨からメカゴジラが製作可能であるということ」。

ゴジラS.P』の結末であるこれらの要素は、過去の「ゴジラ」作品で描かれていたことであり、ゴジラファンが既に知っていたことだったのです。

ジェットジャガーが登場する『ゴジラ対メガロ』、三式機龍が登場する『ゴジラ×メカゴジラ』など過去の「ゴジラシリーズ」で観たことがあるから知っている「情報」でした。

一応、「ゴジラ」、「ゴジラ対メガロ」、「ゴジラ対メカゴジラ」当たりまでは見た。なんとなんとほとんど全部Netflixで見れた。過去を押さえてからゴジラS.P.を製作決定したのだろう。Netflixすごすぎ。答えは最初からあったと。

www.netflix.com


「紅塵」はそもそも最初のゴジラに「赤い砂」がゴジラが水爆で復活する地層として出てきていた。「ゴジラ対メガロ」にジェットジャガーの巨大化も出てくる。ちなみに、第12話を見返しながら本稿を書いているがペロ2が「良心回路」について語っているが、「ゴジラ対メガロ」に出てくるジェットジャガーのことだ。「三式」はこのことらしい。

房総半島沖から発見されサルベージされたオキシジェンデストロイヤーによって抹殺された初代ゴジラの骨を機体のメインフレームおよびDNAコンピューターの基幹にするという形で製作された。これはゴジラのフォルムが極めて戦闘に適したものであるということが判明したからである。

3式機龍 (さんしききりゅう)とは【ピクシブ百科事典】

「西からのぼる太陽」というセリフもどこかで出てきたがそれもまた最初のゴジラの元となった第五福竜丸の体験らしい。

西からのぼる太陽
南の海に降る雪
船員の1人がつぶやく
「あれ、ピカでねぇか?」

西からのぼる太陽…「ゴジラ」と併せて観るべき「第五福竜丸」 - 狂い咲きシネマロード

こまかいことだがエンディングでネットカフェのガラスに「ALLIZDOG」とゴジラの逆文字が映る。DOG、犬とはペロ2のこと。なるほど、答えはGODZILAという問いの中にすでにあったと。

ゴジラS.P. = (あなたの人生の物語 + 屍者の帝国) ÷ ゴジラ

ゴジラが突然私の生活に現れた。「アラレちゃん」風の女の子キャラをNetflixの予告で見た時には、全く観る気になれなかった。しかし、円城塔が関わっていると知って俄然気合いが入った。

godzilla-sp.jp

kai-you.net

——なるほど。制作サイドからの要望に対して、つじつま合わせをするような役割でしょうか。

円城塔 よく言えばそうですね。最初の打ち合わせから2回目くらいで、高橋さんは「『メッセージ』みたいにしたいんだよ!」と言っていて(笑)。

『ゴジラ S.P』円城塔インタビュー 実験と笑い、ポップで新たなゴジラの誕生 - KAI-YOU.net

いやいや、実際の作品を見れば、製作サイド、監督の意思を超えてかなり円城氏の「好み」がぷんぷんするとしか思えない。ごく一例だが、「屍者の帝国」のひとつのクライマックスは「屍者」(自動機械)による巨大な計算機関の場面だ。この場面はかなり円城氏のがノリに乗って描いていた。S.P.においても究極の計算マシンが出てきたりする。さらに、円城氏はロードムービー的展開が好きだ。神野銘はあそこまで世界各地を転戦する必要があったのか?

ja.wikipedia.org

・・・・、とか書きかけたまま二週間が経ちシリーズそのものが終わってしまった。AIと人間などもうちょっと違う観点が必要かなと。また気が向いたら続きを書く。

進撃の巨人 34巻 ネタバレあり

とうとう、「進撃の巨人」が完結した。想っていたよりも劇的ではなく、さりとて矛盾なく終わったことに心から敬意を示したい。

後述するように「二千年後の君へ」と最初から結末が決められていたことが最終話で示されるとは言え、ブログ、SNS全盛時代の影響の下で成立した物語であるように私には想える。「日本」との作品のアナロジーは途中から気づかれたのだと、私は想っている。

*1

まあ、作者の諫山創さん自身がウェブを見ていることは認めておられるようだし・・・。

ネットを見るのが趣味で、自作の評価なども常にチェックしており、ファンからの意見や指摘を参考にすることもある[20]。

諫山創 - Wikipedia

私は、33巻まで読んで本作は「壁」を超え続けていく物語だと受け止めた。

まもなく物語の「終わり」を迎えるこの数巻に至っては、生と死の「壁」すらも超えているように私には見える。いや、もしかすると「巨人」という存在自体が最初から生死の「壁」を示す存在であったのかもしれない。現世で食べられ、死んで亡者となったのが「巨人」だと。生と死の「壁」を超えた存在としての「巨人」、「始祖」が明らかになった。更には歴史の「壁」を超え、はるか昔に超越した能力をもったまま死んだはずの少女が巨人を作り続けてきたのだと示される。さらにさらに、生の世界の象徴であったエレンすらも生死の「壁」を超えすでに現実的な意味では「死者」として生者の世界に君臨しようとしている。

進撃の巨人 33巻 ネタバレあり - HPO機密日誌

残念ながらこの期待は間違っていたようだ。最後は一人の少女の「愛」の解消という形で物語りが終わるとは予測していなかった。逆に言えば、歴史的な対立とはなんなのか、フランシス・フクヤマ的な戦後史にはひとつの「回答」であるのかもしれない。世界平和のために日本が、自分が犠牲になることは厭わないと。「巨人」がいない「人間の歴史」の始まりを示したのだと。

ヨーロッパの500年の歴史において宗教も、科学も、資本主義も、そして、共産主義も人を救えなかった。人々が欲しがるのは安定であるにもかかわらず、技術開発も、経済市場も、経済政策も、そして、社会改革も、逆に社会の不安定さを極大化する方向に運動している。

平成27年2月10日追記 - HPO機密日誌

巨人が全ての人類を抹殺しうる暴力であり、一定以上の人間がつながる全体主義だとすれば、「解消」しなければ人間の歴史は始まらない。人の自由の抹殺というアンチテーゼがあって、初めて歴史の選択という人類の自由が始まる。非常に浅い考察を恥じるしかないが、今の私にはそう思える。

*1:すみません、finalvent「さん」と敬称を落としていました!失礼しました。