無事プレゼンを終えて、今日は大切なお話を聞くことができた。
プレゼンの中で、人から教えてもらった「ドラッカーの『真摯さ』の原語は『インテグリティー(integrity)』だ」とさかしらに触れた。プレゼンが終わって懇談していて、「インテグリティーって統合するって意味でしょ?何を統合するかわかる?」と逆質問されてしまった。しどろもどろになっていると、「自分の信じるものを強く、いつわりなく行動するってことは、人の知性と感情と意思の3つが統合されていることだ。ドラッカーがいう強さ、いつわりのなさとは、この知情意に芯が通っていてひとつになっていることだ。知性は知性、情緒は情緒、意思は意思とばらばらな人は、強くもなく、正直でもないよね。」と教えてくださった。非常に納得した。インテグリティーを人によっては、「誠実さ」と訳しているとも教えていただいた。
ついでによい本を教えていただいた。知情意がひとつになっていないまま、全人格を傾けるべき仕事に臨むと、期待されてない結果になってしまうということなのか。真摯に他山の石とさせていただきたい。
先日の小池龍之介さんの本でも、ドラッカーがどこかで書いていたことも、尊敬する方の話しを聞いていても、ひとつの方向を指し示しているように思える。それは、ものごとを素直にうけとめず、自分勝手にストーリーをあてはめてしまうことそこが悪への道なのだということ。
人生には、通常の感覚からすれば悲惨としか表現のしようのない「悲惨さ」が落ちてくることがある。そのときに、その悲惨さを自分勝手なストーリーにして悲劇の主人公になるのか、そのままを受け入れられるかが、知情意の統合の分け目であろう。
実は、読了していてもここで触れたくない本があった。
中堅ゼネコンの二代目社長で、会社をつぶし、資産を切り売りしながら生活している。娘は一人、妻とは死別。愛人を二人もち、責任感のない生活をだらだらと続ける男の話し。理性も明晰、身体も健康でも、真摯さがない。読み終わって吐き気がした。吐き気がしたのは、私自身が自分勝手なストーリーをつくっていたからだと、小池龍之介さんの本を読み、般若心経を唱えて、やっとわかった。
こいつはこいつで、私は私だ。
私は私がなすべき課題を誠実になせばいい。それだけだ。