HPO機密日誌

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

アメリカの正統性とインディアン・コンプレックス

とにかく14日までには岸田秀の「日本がアメリカを赦す日」を読了してエントリーをアップしようと決めていた。まだ本書が描き出す神経症、強迫症としての日米史観に対しての考えがまとまらない。それでも、トライできるところまでやってみよう。

日本がアメリカを赦す日 (文春文庫)

日本がアメリカを赦す日 (文春文庫)

日本がアメリカを赦す日

日本がアメリカを赦す日

先日、原爆を東京湾に落としただけでも十分に日本の戦意を喪失させ、戦争を終わらせることはできた、その計画さえあったという記事を読んた。東京湾への投下なら場合によっては、直接の殺傷は避けられたかもしれない。富士山への投下という話しすらあったという。はっとした。原爆投下は、本後決戦による百万人の兵士の命を救うためだとは嘘だと。純粋に米国は、日本を壊滅させたかったのだと。なぜ米国は東京大空襲、各都市への爆撃、そして、広島、長崎への原爆投下と一般市民の大量殺戮をして、日本を壊滅させたかったのだろうかと。なぜ息もたえだえの日本の和平交渉をすべて拒絶したのかと。

その気づきを得た上で、岸田秀が論じるアメリカ人が自身の正統性についての「インディアン・コンプレックス」の話しを読んだ。イラクでも、ベトナムでも、日本でも、南北戦争でも、自分の正義を貫いているという正当性を示さなければならないのは、国家の起源にまでさかのぼる米国の強迫神経症的な正統性へのコンプレックスがあるからだと。

アメリカがつねに正義の立場に立ちたがるというのは、立たざるを得ないコンプレックスがあるからだと思います。僕はそれは、インディアン虐殺からきていると考えています。アメリカ大陸にはインディアンが住んでいたわけですね。アメリカなる国をつくるためには、インディアンを殺し、その土地を奪わねばなりませんでした。ここでアメリカ人は、解決しがたい矛盾に直面しました。彼らは、不正に汚れたヨーロッパから逃れ、新大陸に新しい正義の国を建設するという使命を神から託されてやってきた人たちでした。したがって、単に邪魔だから、インディアンを殺すということを正直に認めることはできず、なんとかインディアン虐殺を正当化しなければなりませんでした。

戦後だけを見ても、トインビーが指摘するように少なくとも建前としては太平洋戦争で全力で打ち砕こうとした周回遅れの帝国主義に、米国政府と米国人が走った。自分たちがどれだけ「自衛」、「冷戦」だと言っても、他国に侵攻した事実は消えない。米国の傲慢さがある。

1980年代のアフガニスタン紛争、あるいは中東の動きを見るに、自由の国から世界で最も傲慢な国となった米国に対する国民レベルでの反感、憎悪が世界情勢を動かしたといっても過言ではない。トインビーの目の確かさを感じる。

"The Answer to 1984 is 1776" - HPO機密日誌

この自国が傲慢な帝国主義に陥っているかもしれないという神経症的コンプレックスを持ちながら、自国の歴史の正統性を守らなければならない。このため、ますます「精神分析的には、強迫神経症の患者で、反復脅迫症」的二律背反の精神症を「発症」していると。太平洋戦争で徹底的に打ち負かした日本と同じ罪、つまりは帝国主義的戦争、一般市民を大量虐殺した戦争犯罪を自ら犯していることになりかねない。日本を裁いたその刃が自分に向きかねないろいう「強迫神経症」により、東京裁判ではどこまでも自らの正義を立証しなければならなかった。東京裁判がいかに矛盾した裁判であったかは、その根拠法すら明確でないことから明かだ。

東京裁判で適用された「東京裁判所条例」、いわゆるチャーターは、国際法という上位の法律と矛盾があってはならない。憲法と一般法が矛盾してはならないのと同様である。しかるに、国家が瓦解してなし崩しに無条件降伏したドイツに適用したチャーター=条例を、そのまま国家体制があるままポツダム宣言を受け入れた日本に適用はできない。

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国家体制が瓦解したドイツでは、政権を握っていたナチス国家社会主義ドイツ労働者党を裁判にかけることができた。戦後の政体も戦前とは別の政体であるとして再出発できた。しかし、ポツダム宣言を受け入れた主体としての政体が存続していて、国家体制、国体を維持したままの日本ではその論理はなりたたない。大変、怒りを感じるところであるが、本日のメインテーマでないのでここではこれ以上東京裁判については立ち入らない。

話しを戻して、インディアン・コンプレックス。日本は、米国とは真逆に、国の正統性についての誇大妄想とマゾヒスティックな敗北主義の両極に走る自己欺瞞の神経症的な症状を持つ。この日本の両極端な神経症と、米国の尊大なインディアン・コンプレックスが見事に組み合わさって、ペリー来航から、日露戦争を経て、太平洋戦争の敗北、戦後の米国支配の継続の歴史に帰着している。日本の劣等気質と、米国の尊大さが、交流分析の「適合した子供」と「お節介な親」の組み合わせとなってはまってしまった。

ある人のNP[育てる、お節介な親]要素と、対面している人のAC[適応する子供、素直な子供]が組み合わさると人間関係がスムーズに運ぶ。どちらかは愛の対象を、他方は甘える対象を求めるから。

「インサイド・ヘッド」(ネタバレあり) - HPO機密日誌

米国が必ずしも、他国を支配することに長けているわけではないという証拠に、日本以外には米国はベトナムでも、中東でも、南米ですら、介入して戦争という暴力による「スクラップ」には成功しても、国造りという「ビルド」には成功してこなかったと。

そして、米国の尊大さの極に米国の広島、長崎への原爆投下と、戦後のその正当化に帰着した。

なぜアメリカは敵を完膚なきまでに叩きのめさないと気が済まないのでしょうか。またインディアンとアメリカ人との歴史に返りますが、それはインディアンを完膚なきまでに叩きのめしたからです。アメリカ人はインディアンを完膚なきまで叩きのめし、かつ、そのことを正当化したため、それ以後、いかなる敵と戦っても、敵の立場をいささかでも考慮に入れ、敵の正当性をいささかでも認め、完膚なきまでに叩きのめす手前で中止したとしたら、かつてインディアンを完膚なきまで叩きのめしたのは果たして正しかったのか、そこまでやる必要はあったのか、などの深刻な自己疑惑に陥らざるを得ないのです。それが恐ろしいので、アメリカ人は、戦争となると、敵を完全に屈服させることを疑い得ない前提とせざるを得ないのです。

このためには、原爆の投下が東京湾への威嚇攻撃や、富士山の爆破消失では不十分で、広島と長崎、あるいは東京帝都に落とす必要すらあったと。

「日本がアメリカを赦す日」とは、米国がインディアンに国を奪ったのは間違いであったと認め、日本に対して原爆投下は過剰であったと謝罪する未来のこと。そこらか、日本と米国の真に大人同士の関係が築ける・・・、のだが、そんな日は永遠に来ない。ことほどさように一国の正統性というのは大切。不分明ながらも、日本の天皇家にまつわる正統性については疑いようもない。これは本当に幸せなことだと、少児的神経症だと切って捨てておきながら矛盾した感想を持った。保守の伝統の中で育った者として、この感情はどうしようもない。

ちなみに、本書の「個人の分析と集団の分析」という補論がすばらしい。時間の起源にまでさかのぼって、個人の分析手法がなぜ集団、国の分析に使えるのか論じている。近々要旨をまとめておきたい。