HPO機密日誌

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

「戦争まで」

なぜ太平洋戦争に至ったかをぐうのねもでないほどわかりやすく、実証的に語った本。中高生に実際に語りかけた「授業」を元にしているという点でも、実に読みやすかった。

戦争まで 歴史を決めた交渉と日本の失敗

戦争まで 歴史を決めた交渉と日本の失敗

加藤陽子先生をハフィントンポストの記事で知った。

太平洋戦争の開戦から12月8日で75年を迎える。改めて、なぜ日本は戦争へと至ったのだろうか。

日本近現代史が専門の加藤陽子東京大学教授は近著『戦争まで』で、1941年の太平洋戦争の前に、世界が日本に「どちらを選ぶのか」と真剣に問いかけてきた交渉事は3度あったと指摘する。「満州事変(1931年)とリットン報告書(1932年)」「日独伊三国同盟(1940年)」そして「日米交渉(1941年)」だ。

日本は、真に問われていた選択肢が何であったのかをつかめず、本来はあり得た可能性や回避可能な選択肢をみすみす逃した。ただ、「世界」の側が常に正しかったとも言えない。「世界」から選択を問われた日本がどんな対応をとったのか、それを正確に描くことは「未来を予測するのに役立つ」と加藤氏は語る。

「太平洋戦争は軍部の暴走といった単純な話の帰結ではない」と言う加藤氏に、その意味するところを聞いた。

真珠湾攻撃から75年、歴史家・加藤陽子氏は語る「太平洋戦争を回避する選択肢はたくさんあった」

ところが、興味深い内容であるにもかかわらず、このインタビューが冗長に感じられた。Amazonでご著書を探してみて、一番わかりやすく、総合的にかいてありそうだと想い本書を購入して読んだ。

自分がこれまで太平洋戦争の開戦の理由、南進、北進の判断などについて勉強してきたことすべてが網羅されていた。また、いかに自分が浅薄にしか勉強してこず、思い違いをしていたかも思い知らされた。

なぜ体へ洋戦争に日本が突入したか?なぜ、ソ連の脅威に備えて北進を専守することなく、南進に踏み切ったか?ずいぶん長いこと本を読んだり多少は考えたりして、答えを求めてきた。愚鈍な私のことなので、自分が持っていた印象をぬぐえず、本を読む度、資料を調べる度に右に左に揺れてきた。

現代からさかのぼっていけば、米国から憲法と安全保障を提供されて現代の日本がある。憲法を変えられたのは、米国との戦争に負けたからだと。米国との戦争になぜまけたかは、そもそも北進しないで南進したから。なぜ南進したかの犯人は長いこと、統制派の東条英機三国同盟を結んだ松岡洋右あたりだと考えてきた。そもそも大本営発表の嘘の戦果のほとんどが海軍だし、実は帝国海軍はかなり無茶をしていたと知って、衝撃を受けてはいる。なぜ南進したかは、ソ連のスパイ、ゾルゲ、共産主義者の尾崎秀実の暗躍があったとも知った。なぜ彼らが暗躍できたかというと、戦前から60年代、70年代まで続く共産主義への傾倒があったからと理解している。つまりは、太平洋戦争とは共産主義者、戦前の官僚たちの「成功した革命」であったと。

1920年代日本のマルクス大ブーム - HPO機密日誌

三国同盟ひとつとっても、ドイツの欧州戦での勝利を疑わなかった中堅官僚達が東亜での英仏等の領土を切り取ろうとした意図が根底にあったと初めて知った。1940年夏当時、欧州で連戦連勝し、フランスを無血開城させ、イギリス軍をダンケルクまでおいつめていた時期。

ヒットラーの思惑は、イギリスを攻め落とすために日本が同盟先として重要だと。

イギリスの希望はロシアとアメリカである。もしロシアへの希望が潰えれば、アメリカも潰え去る。なぜならロシアが脱落すると東アジアにおいて日本の価値が飛躍的に高まるからである。

ヒットラーの意思としても、日本をして東アジアの英仏領土を日本に責めさせたかったと。そして、アメリカを三国同盟の条文の中で名指しをしないまでも同盟国の仮想敵国とすることでアメリカの力を大西洋と太平洋に二分させたかったと。秀逸なのは、加藤先生が中堅官僚達の「日独伊提携強化に関する陸海外三省係官会議」の議事録から、1940年7月の時点で日本の官僚達はアメリカと戦う気などさらさらなく、ドイツが勝った場合の「戦後」を想定して、三国同盟で恩を売っておけば日本の東アジアでの権益拡大につながると。要は、第一次世界大戦で得た漁夫の利をもう一度と想っていたことを立証していらっしゃる。

翌1941年の最後の最後の日米交渉においても、ドイツの傀儡政権であるフランスのヴィシー政権との協定を結んだ上であったとはいえ、南部仏印進駐をしてしまうなど、「戦後」への思惑が強すぎて軽率な行動をとってしまった。

第二次世界大戦下におけるフランス領インドシナ(仏領印度支那)への日本軍の進駐のことを指す。1940年の北部仏印進駐と、1941年の南部仏印進駐に分けられる。南部仏印進駐は日米関係の決定的な決裂をもたらした、太平洋戦争への回帰不能点(英語版)であると評されている[1]。

仏印進駐 - Wikipedia

また、米国政府内でもこの対応について意見がわれたまま日本の全面対日禁輸をとってしまった。本書に書かれていることを、私はまったく知らなかった。

八月末、日米交渉の会話を見ると出てくるのですが、ハルは九月四日、野村から指摘されて初めて、全面的な対日禁輸措置をアメリカ全土でとってしっていたことを知るところとなりました。八月一日を境に、日本には一滴の石油も売らず、アメリカの港からの積み出しを全部止めてしまったとは、ローズヴェルトもハルも知らなかった。そのような齟齬、ボタンのかけ違いが発生していました。

それでも、当時の近衞首相とローゼゥヴェルト大統領の巨頭会談など、最後の最後まで「恒久平和」の道を模索しつづけたが、実現されたなかった背景には、日本の右翼などの勢力をあげている。前述の軍人、官僚達すら、昭和天皇の意思を批判するという自分達に都合のいい「国家」観が横行していたと。2.26事件などを考えると、テロに屈したと当時の政治家を責めるわけにもいかなかったのかもしれない。その頃の日本の国民の動向を尾崎秀実と昭和天皇の言葉から採っている。実に心憎いばかりに、歴史学している。

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最後の憲法に関する議論は日本人必読かもしれない。

(ルソーによると)戦争とは、相手方の権力の正統性原理である憲法を攻撃目標とする。戦争は、主権や社会契約に対する攻撃であり、敵対する国家の憲法に対する攻撃というかたちをとるものだ、と。この場合の憲法とは、憲法〇〇条というような、具体的な憲法の条文ではなく、社会を成り立たせている基本的秩序、憲法原理を意味しています。

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大変、いろいろなことがつながった。戦争、特に総力戦と正統性についてはまた改めて考えたい。