「誰が太平洋戦争を始めたか」を読了した。昨日の続きになる。嫌いな思想、考えでも受け入れる努力をするのがリベラルだとおっしゃっていた方がいたので、受け入れるように努力しながら読んだ。それでも、いろいろな点で矛盾を感じざるを得なかった。
- 作者: 別宮暖朗
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2014/01/17
- メディア: Kindle版
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本書を読んで、改めて真珠湾に至る陸軍と海軍の対立点が北進か南進であって戦争開始の是非ではなかったこと、官僚的思考ではそれぞれの「省益」しか追求できなかったために太平洋戦争にいたったことなど、大変勉強になった。関係情報を検索したり、思いつきを書き込みしながら読めた。Kindleで本を読むのは、効率的だ。
しかし、海軍条約派と言われる米内光政・山本五十六・井上成美の三人が「ハワイ作戦」を立案、準備したために太平洋戦争が始まったとする本書の主張は随所で矛盾している。そもそも、海軍の作戦準備が暴走して太平洋戦争になったとしながら、別の箇所で「現役主義のために米内光政はハワイ作戦を知らなかった」と主張しているのは明らかに矛盾だ。海軍にはハワイ作戦、真珠湾攻撃しかなかった。本気で米内が戦争推進、作戦遂行したければ、わざわざ自分で首相を降りない。
第三次ヴィンソン法案の「米国の空母24隻」についても、矛盾を感じる。ウェブ上にこのような記述もあった。
この法案の内容や意義についての理解度は極めて低く、たとえば二〇一一年五月号の某雑誌のB・M氏論文では、「第三次ビンソン法で二十四隻の空母建造権限を大統領に与え」、それにより「日本海軍が空母建造に遅れたのが日本海軍の敗因」と速断しました。
空母開発競争
これまで見た通り開戦時の空母保有数で、日本は決して立ち遅れていません。逆に米海軍は、ヴィンソン法最終の第四次までの空母累計認可数は十二隻。しかもエセックスの就役は開戦後一年以上経った一九四二年十二月末で、立ち遅れたのはむしろ米海軍です。
米側についてのB・M氏の所説は完全誤認。さらに日本側について「山本五十六が空母を理解していなかったのが敗因」と断じているのに至っては、あらゆる諸記録とは全く相反しています。
リンク先を辿ってもらえればわかるが、この記述の通りだ。戦前の海軍は、列強諸国に先んじて航空兵力の育成と空母の実現に努力してきた。それにも関わらず、数年の内には米国の空母整備計画により無力化されてしまうというあせりがあったのは事実であろう。そして、また米海軍が日本海軍を圧倒すれば、日本海軍は無力化され、米国の意思の下に日本は隷従する道しか残されなかっただろう。しかし、このあせりをもって太平洋戦争を開始したのは海軍だとするのは間違いだ。ことここにいたる状況を中国進出、ベトナム進軍によって作ってしまった陸軍と陸軍出身者、米軍と武力を背景に持って取り決めをして戦争準備を停められなかった近衞首相、あるいはむちゃむちゃな狂気として言えない行動により三国同盟を成立させてしまった外交官松岡などの政治家の問題の方が大きい。
ただし、戦前から「持たざる小国日本」という規定の中から「決戦思想」に結実したことは「未完のファシズム」に詳しい。実際、緒戦の勝利を持って敵を驚愕、戦意喪失させる以外に日本が武力を持って意思を貫徹する方法はなかった。この思想に海軍条約派三羽カラスは忠実であったかもしれない。
- 作者: 片山杜秀
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2012/05
- メディア: 単行本
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「決戦思想」は、陸軍では「包囲殲滅戦」として結実した。
この「包囲殲滅戦+短期決戦」というドグマを主軸に置く「統帥綱領」を作成したのは小畑敏四郎中将だった。元々は、小畑は3年以上におよぶ長期出張によりロシア軍の第一次世界大戦での戦闘をつぶさに観察した。長期戦で総力戦になれば、国力に劣る国が敗れる。あるいは、まさに小畑の長期出張中に起こったロシア革命のように国がつぶれる。冷徹な第一次世界大戦の観察から、小畑は日本を大国に国力で劣る「持たざる国」と規定し、日本が唯一戦わなくてはならない、が、しかし、戦うからには必ず勝利しなければならないのはロシア改めソ連だと想定していたという。
「死者の支配力」 - HPO機密日誌
この意味で、1941年12月の時点、いやその前年の経緯から言って陸軍は北進=対ロシア戦しか準備できておらず、海軍は南進=対米開戦しか考えられなかったことが日本の不幸ではある。しかし、陸軍対海軍の対立で海軍側の南進策が採られたからといって山本五十六が太平洋戦争を始めたとは言えない。
米国の最近の研究から言っても、山本五十六提督は言ったことは守っている。すなわち、一日にして真珠湾、フィリピン、シンガポール強襲をする。そして、「二年は暴れまわって見せます」と。その間に、戦後は多いに軍艦や、空母を作っていい、蒙古満州の権益も国際的に認めるというような、1941年春には日米で同意しかけたラインで、停戦、手打ちにできなかった政治家が無能だ。ましてや、D機関だの戦争が相当に進んだ段階でも窓口はいろいろあった。*1
太平洋戦争開戦時の課題に立ち返るなら、重要なのは戦争の勝利そのものではなく、勝利の意味にあった。本書にも記されているように、この点では山本の認識は明確であった。この戦争が維持できるのは、「せいぜい一年半」だったと彼は考えていた。ゆえに短期間に徹底的に米海軍を叩きつぶし、講和に持ち込むことが勝利の意味のはずだった。それでこそ米国と長期戦を避けることができる。だが、講和はできなかった。
[書評]太平洋の試練 真珠湾からミッドウェイまで(イアン・トール): 極東ブログ
ぜひ著者の方には山本五十六記念館に行ってその書を観ていただきたい。
「国大なりといえども戦いを好まば必ず亡ぶ
天下安らかなりといえども、戦いを忘れなば必ず危うし」
山本五十六
*1:このようにして大使館の関知しないまま、3月17日には日米国交調整に関する「原則的合意」についての予備的草案である「井川・ドラウト案」が作成されました。4月からはこの民間交渉に陸軍省の前軍事課長岩畔豪雄大佐が加わり、大使館側も岩畔から報告を受け、協議も行われるようになりました。
やがて「井川・ドラウト案」をもとにして修正案が作成され、4月14、16日の野村・ハル会談において、このいわゆる「日米諒解案」をその後の「日米交渉」を進めるうえでの出発点とすることが合意されました。
この「諒解案」は、
1.全ての国家の領土保全と主権尊重
2.他国に対する内政不干渉
3.通商を含めた機会均等
4.平和的手段によらぬ限り太平洋の現状維持
の4項目からなる、いわゆる「ハル四原則」を日本側が受け入れることを前提としたものでしたが、近衛ら日本政府側は「諒解案」を歓迎しました。