自分の執務室に山本五十六元帥の記念館で買ってきた「やってみせ・・・」の手ぬぐいをかけている。長岡は大好きで何度通ったかわかないほど通っている。その山本五十六大好きの私が、中川八洋先生の本でいささか疑問を持ってしまっている。
連合艦隊司令長官 山本五十六の大罪―亡国の帝国海軍と太平洋戦争の真像
- 作者: 中川八洋
- 出版社/メーカー: 弓立社
- 発売日: 2008/06
- メディア: 単行本
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「誰が太平洋戦争を始めたのか?」を読んだときも、若干の疑問は持った。大いに反発したけれども。
- 作者: 別宮暖朗
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2008/08/06
- メディア: 文庫
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海軍条約派と言われる米内光政・山本五十六・井上成美の三人が「ハワイ作戦」を立案、準備したために太平洋戦争が始まったとする本書の主張は随所で矛盾している。そもそも、海軍の作戦準備が暴走して太平洋戦争になったとしながら、別の箇所で「現役主義のために米内光政はハワイ作戦を知らなかった」と主張しているのは明らかに矛盾だ。海軍にはハワイ作戦、真珠湾攻撃しかなかった。本気で米内が戦争推進、作戦遂行したければ、わざわざ自分で首相を降りない。
日本決戦思想という病 - HPO機密日誌
もっとも、遡れば半藤さんの本を読んだときも、「あれ?案外山本五十六元帥は決戦の場にいない。『戦艦大和ホテル』といわれて、将校とカードや、将棋をしてた???」と感じてはいた。
- 作者: 半藤一利
- 出版社/メーカー: 平凡社
- 発売日: 2007/11/23
- メディア: 単行本
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まだ、中川八洋先生の毒に満ちた言葉を引用する気にはなれない。だが、2つだけあまりにも連合艦隊の思考、つまりは山本五十六の組織が緩んでいたと思われる事例を引用しておく。
大東亜戦争開戦前、日本海軍は、対米作戦における基本的な方針として守勢の邀撃作戦を採っていた。連合艦隊司令長官であった山本五十六大将は以前よりこの方針に疑問を持ち、独自の対米作戦構想として積極的な攻勢作戦を考えていた。
(中略)
大本営(参謀本部・軍令部)と連合艦隊司令部はこの作戦について激しく対立した。軍令部は日本の国力からみてハワイ諸島の攻略と維持など不可能と判断し、むしろインド洋方面の作戦を強化してイギリスを追い詰め、間接的に同盟国ナチスドイツを支援することを構想していた。軍令部航空担当部員の三代辰吉中佐は、「仮に日本軍がミッドウェー島を占領しても、米艦隊は本当に出現するのか。日本軍の補給路が米軍に遮断され、疲弊した所を簡単に奪回されるだけではないか」という点を考慮して反対し、FS作戦(ニューカレドニア島とフィジー諸島の攻略)を重視する立場を崩さなかった。連合艦隊司令部の黒島参謀と渡辺安次参謀は、山本が「この作戦が認められないのであれば司令長官の職を辞する」との固い決意を持っているとして、軍令部と折衝した[21]。だが、この論法は真珠湾攻撃の際にも使用されていた事もあって今度は容易には通用せず、交渉は暗礁に乗り上げた。
(強調は本ブログ)
ミッドウェー海戦 - Wikipedia
中川先生が指摘するように、基本方針としての「守勢の邀撃作戦」は正しい。栗山中将の硫黄島の要塞化、そして、上陸させてからのゲリラ戦は多大な戦果をあげた。同様の守成をとれば、太平洋の真ん中まで艦隊を進める「積極的な攻勢作戦」は劣勢になっていく日本に取って必敗の戦略。石油確保、中国大陸で行われている戦争を考えれば、島嶼部の防御と、逆にインド洋に出て行く攻撃の方が正しいくらい。
当時三十歳代の大日本帝国「ベスト&ブライティスト」を集めた「総力戦研究所」の1期生が、昭和16年夏の時点で、日本必敗を予測していたということ。その根拠として、南進して仮に石油を確保しても、それを運ぶ商船が足りなくなるであろうことを予測していたと。
石油はあれども石油はなし - HPO機密日誌
実際に、日本は昭和20年においてもインドネシアにおいてまだまだ戦えるだけの石油を確保していた。それを運搬する、精製することが、予想通りに艦船の不足でできなかっただけだ。
もうひとつ。海軍乙事件の顛末。
二番機はセブ島沖に不時着し、搭乗していた連合艦隊参謀長福留繁中将以下の連合艦隊司令部要員3名(他、山本祐二作戦参謀、山形掌通信長)を含む9名は泳いで上陸したが、ゲリラの捕虜となり、1944年(昭和19年)3月8日に作成されたばかりの新Z号作戦計画書、司令部用信号書、暗号書といった数々の最重要軍事機密を奪われた。ゲリラに対して警戒心を抱かなかった福留らは拘束時に抵抗や自決、機密書類の破棄もしなかった(かばんを川に投げ込んだが、すぐに回収されたという)。
(中略)
福留は海軍上層部の擁護もあり、軍法会議にかけられる事も、予備役に退かされる事もなく、第二航空艦隊司令長官に着任し、海軍内の要路に留まった。 福留らは結局事件直後からその最期まで軍機を奪われた事を認めようとはしなかった。 戦後、海軍は身内に甘い体質を持つと批判されたが、その理由として本件を挙げられることもある。
海軍乙事件 - Wikipedia
山本五十六が「この作戦が認められないのであれば司令長官の職を辞する」などとたんかを切ってまでミッドウェー作戦を強行し、しかも、その戦闘の責任を山本自身を含めて誰も取らなかった。これでは、山本五十六なきあとも、軍法会議で死刑の宣告、もしくは自分で腹を切るほどの大失敗を犯した福留中将をとがめられない。
いや、困った、本当に私が持っていた帝国海軍、山本五十六像がくずれかねない。