先日、「嫌われる勇気」を読んで悲しみ、苦しみから抜け出す方向を教えられたと書いた。実は、この本は、新入社員から教えられた。自分の子供達より若い方々だ。たまたま研修のコマをもらって話した時に、彼らから「嫌われる勇気」の話しが出た。「勇気」と更には「箱の法則」を読んで少なくとも理解のレベルでは一縷の望みが見えてきた。
先日の私の人生を変える出来事以来、般若心経の写経を繰り返した。「嫌われる勇気」で訴えられている「心の平安」は般若心経の「色即是空空即是色」だと痛感した。人の苦しみ、悲しみは誰でも、過去に原因があるのだと想っている。過去でなくとも、現在のまわりの環境や、特定の人、社会、事件などが原因なのだと。私もそうとしか思えなかった。なぜ、なぜ、なぜだ、私の過去の行動、人の言動、すべてがその出来事につながっているように想え、眠れない日々が続いた。なぜと問えばとうほど悲嘆の沼にずぶずぶとはまっていった。しかし、そうではない、過去ではない、原因ではない、と本書は語っていく。今の自分を変えたくないからこそ、過去の事件を持ちだしていま自分が動けない悲惨な状況にい続けているのだと。人はその人と会いたくないという目的論で動いているのに、過去の出来事に結びつけて原因論にもっていくのだと。実は自分が今を生きているのに、自分自身が自分過去の出来事に結びつけてしまうから「悲しい」という状況を作り出しているのだと。この理解に立てば、この悲しみ、苦しみの実態に気づけるのだと、「嫌われる勇気」も、「般若心経」も教えてくれた。すべての苦しみ、悲しみは自己欺瞞なのだと受け止めたい。
- 作者:アービンジャー・インスティチュート
- 発売日: 2007/09/06
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
さらに、今度「箱の法則」を読み直した。本書はこの自己欺瞞によって自分が自分の目の前の人を「人」ではなく「モノ」と捉えてしまう状況からいかに抜け出すかを記述している。極端に言えば、相手は自分をこんな状況にした張本人なのだから人扱いはできないと。「敵」だと思った途端に自分は相手を最悪の存在だと決めつけてします。私は30代の時には自分は世界で一番不幸だと思っていた。それはレトリック、例えではなく本気でそう思っていた。仕事でも、家庭でも、なにも上手くいかないと。自分の周りは「敵」ばかりだと。自分で自分の立場を選んだという自覚はあっても、未来に全く希望を持てなかった。正直、その場から逃げ出すことすら考えていた。事実、離婚までした。いまの社会的な立場をよく胸をはれるなと自分でも想う。いまなら、それは自分が「箱の中」の状況にいて周りの人々を「人」と見れていなかったから、過去の原因で自分が縛られていると思い込んでいたのだと分析する余裕がある。心の平安がある。同僚と一緒に毎日意義ある仕事をしていると想える。
人によって「箱」の「様態」は違う。本書には、以下の類型が載っていた。私は当時「劣等感の箱」と矛盾するようだが「当然の箱」にハマっていた。「世の中は過酷だ、私が何をしても改善しない」「当然周りの人々(家族)はここまで自分を助けてくれて当たり前なのに手をかしてくれい」といった状況だった。自己欺瞞以外のなにものでもなかった。
更に本書で示される五段階の「ピラミッド」と般若心経の示す八正道の類似を論じたい。心の平安、箱を常に出る姿勢があるとないとでは人生の危機において悲劇を生むのか、そこからの成長を自身で導けるのか、まったく違う。