LGBTでも、なんでもいいけど、人間の性的な嗜好には「陽」と「陰」があると思う。もっとあけすけに言えばはめる方か、はめられる方かだ。安定的で保守的なパートナーシップのイメージは男と女という姿であろう。最近では、男と男、女と女、様々な性的な「自認」と関係性があるが、いずれもどこかで陽と陰の役割がある。相互にチェンジ可能だと主張するかもしれないが、どこかでリードする方、フォローする方の性的な役割が広く生活の上でも影響を及ぼしていることになる。
最近では、弱男性やら、セクシュアルなことに興味を持てないアセクシュアルもあるので、パートナー同士においける社会的な役割を固定的に語るのは難しい。
誰かと付き合いたいと思う感情が湧かないまま20代が終わったb.hatena.ne.jpLGBT業界ではたしかそういう性に興味がないというクラスも用意されていたと記憶。すくなくとも、デヴィットブリンの小説だかにそれぞれのセクシュアリティ別社会にア・セクシュアルというのがあった。
2019/01/03 11:22
ということで、ここでの議論は少なくとも二人の成人で構成されるパートナーシップの性的な魅力が大きな基盤を占める(すくなくともそれなしでは安定し得ない)関係性に限りたいと思う。この時点で、完全にイコールなパートナーシップは少数派になると私は思う。なぜなら、ソクラテスの「饗宴」の昔からはめる/はめられる関係性がパートナーシップの基本となるからだ。
そして、この陽と陰の役割の違いは保守的な視点での「男」と「女」の役割に近づく。ここでの「陽」と「陰」の役割はあくまで「差異」の問題であり、仮に保守的な意味でマッチョで「男性的」と言われる例えば警察官同士のゲイであっても、二人の関係性の中では「陽」と「陰」という役割分担が生まれるだろうということ*2。
なぜこんなことを論じているかと言えば、さんざん本ブログにおいて「男」と「女」について論じてきた。セクシストと言われれば甘じてその言葉を受け止める。現代のLGBTが跋扈する時代においても、役割としての「陽」と「陰」、「男」と「女」は残るだろうと主張したい。これまでも、これからも、私のブログの中で男と女という言葉が出てきたら以上の理解の下に使われていると宣言しておく。
ちなみに、私は一般的な政治/政策的には保守派を自認するが、セクシュアリティについては広く認められるべきだと個人的信条を持っている。
*1:「饗宴」はLGBT関係者必読だと私は思う。2500年前からLGBTは普通に認められていた。むしろ、立派な市民となるためには必須の関係性だと讃えられていたことを知るだろう。
*2:ホモ、ゲイのパートナーシップが安定しないという問題は「ボヘミアン・ラプソディ」でも描かれていたが、これはまた別の機会に論じたい。