HPO機密日誌

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

学習とはできなかったことができるようになること

学習とはなにか?大学時代の授業でずいぶん講義を聞いたように思うが、いまだにその本質がわからない。TED、植松電気の植松氏は、「できなかったことができるようになること」だとおっしゃっていた。

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ブログで植松氏はこう書いていらっしゃる。

脳の発育を考えたとき、
それは、幼体に近い方が、より発達するのかもしれません。
その際には、単純な繰り返し訓練や、パターン認識による反射の訓練だけでは、きっと脳の発展には不十分なのかもしれません。
もっと思考に重きをおく必要があるのだと思いますが、
でも、思考は人それぞれなので、正解を定義しにくくなります。
でも、人生は、正解不正解が不明確なことが多いです。
それを、無理してジャッジしてしまうと、もしかしたら、思考力はのびないのかもしれません。

幼体の形質を保つ成体 - 植松努のブログ(まんまだね)

「わかった」と思えることは、ものの見方が変わることだと私は考えている。考えがまとまらない時、よく紙切れに思いついたことを書き留めて、それを紙にならべて線や図形でつなげているうちに、「思いつき」に共通する項目や、新しいものの見方が浮かぶという体験をした。

そう、たとえば以前、ブログの記事ひとつひとつこをことばととらえてマインドマップを作った。これは自分にとってかなりおもしろい試みだった。雑然と書いてきた自分のブログの方向性がこの作業によって見えてきた。ブログの記事でマインドマップを作るのは、はKJ法の延長線上にある発想法だと確信した。KJ法にくわしい方によると、KJ法のこつというのは、考えないことだという。

RE: 言葉、言葉、言葉 - HPO機密日誌

「学習」とは、ものや、ことを理解することに終わらずに、「できなかったことができるようになる」、「できるようにする」ことだとすれば、理解=学習では当然ない。しばらく前に、私は知的な「理解」をもって「学習」と勘違いしていることに気づき、ゴルフを始めた。たぶん、もう少し年をとっても読書をしたり、文章を書いたりは続けられるが、身体をつかって「できなかったことをできるようにする」ことを始めるのはいましかないと思ったからだ。それから数年、まだまだ下手くそではあるが、数限りない試行錯誤という失敗を経て、前よりはドライバーで玉をより遠くに、よりフェアウェイ近くに飛ばせるようになった。アプローチも何度かチップインできるようになった。いや、スコアはあまりまとまってはいないが・・・。私にとっては大きな学習体験だ。

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そして、ここに立って初めて植松氏が戦っている相手がわかってくる。「学習してもできなかったことができるようにはならない」と挫折している人々だ。たぶん、そうした人々も以前は「できる、できる、絶対できるようになる」と思って努力したことがあったのだろう。あるいは、「私が教えればきっと教え子達は『できる』ようになる」と信じていたに違いない。しかし、長年に渡って「理解」はしても、「できなかったことができるようになる」学習を経験してこなかったがために、「どうせできない」になってしまったのではないだろう?学習をあきらめてしまったのではないだろうか?

そして、さらにこの背景に失敗を許さない日本の社会的な要因があるように思えてならない。

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