HPO機密日誌

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

RE: 言葉、言葉、言葉

(第二稿)

m_um_uさんの記事を読ませていただいて、大変驚愕している。もうちょっと議論を深めたいと思っているが、m_um_uさんが提示しているアイデアは、ネットが非常に仏教の考えに近い形態になっている、なっていくだろうということを示しているように思う。以前、「ガイア」というSFについてちょっと書いた。この中で、ネットが日常になっている社
会を描くだけでなく、クライマックスで集合体としてのネット全体がひとつの意志を示すシーンがある。あるいは、m_um_uさんが例にひているサイバーパンクの三部作も、その可能性を示している。

はじめにことばありき。ことばはネットであり、ネットはことばだった。

ネットはもともとつながることがその本姓である。ネットがなにかといえば、あえていえばいくつかのルールの集合体にすぎない。RFC等により定められた方法で、通信を行うというインフラストラクチャーにすぎない。有名な話だが、ネットは核の攻撃を想定して作られたという。すなわち、中心をもたない通信手段を構築すれば、ネットのどの一部でも残っていれば、通信可能なのだという。現在のネット以前では、電話の通信網がその代表格だろうが、かならず中心をもっている。メインフレームの世界だ。それに対して、現在のネットは中心をもたない。

核攻撃という西欧科学の究極の武器に対抗する、西欧流の化学の粋を集め
た最新テクノロジーの集合体のネットが、中心のない仏教の縁のかたまり
のような機能を果たすのだとしたら、これは愉快な話である。

そう、たとえば以前、ブログの記事ひとつひとつこをことばととらえてマインドマップを作った。これは自分にとってかなりおもしろい試みだった。雑然と書いてきた自分のブログの方向性がこの作業によって見えてきた。ブログの記事でマインドマップを作るのは、はKJ法の延長線上にある発想法だと確信した。KJ法にくわしい方によると、KJ法のこつというのは、考えないことだという。

ネット全体が、マインドマップのように、ひとつの意志を示すということはありうるのだろうか?

ブログってなんなんだろうかとか考えているうちに、。ネットはネットの上でつながっている。やりとりされるのは、情報、つながるのはリンク。ノード(終端)である利用者を含めて感がえれば、「なにも考えていない」状態で、リンクや、メールのやりとりや、トラックバックがなされている。

たとえば、記事ひとつずつに方向性、全体性が内蔵されている。たとえ一行の記事でもその前後の文脈で、その言葉のしめす全体像がある。一昔前にはやったホロンのイメージがある。依然、森さんがアフォーダンスということを言っていた。はさみ1丁でも、人間がそれをみるときはさみはその機能を人間にアフォーダンスしているので、認知がうまれるとかいっていた。ものには、その示すところが内蔵されている。

実はネット全体がそうなのではないか?ブログがリアルとつながるところ。ネットを通じた相互参照。言語学。示されるものと、示すもの。

そっか、だから辞書や百科事典みたいに最近のネットは進化してきたんだ!

ことばも自己参照的だ。そう、例の「あれ」ということばを辞書でひいたら「これ」が出てきて、「これ」を辞書でひいたら「あれ」がでてくるという永遠の循環のことばの体系によってことばはできている。ことばにあるのは、差異だけだ、とかかくとおまえは浅田シンパだなとやじられそうなので、これもこれ以上触れない。

しかし、ネットがリアルと接するところはどこだろうか?ぼくにはどうも出口が見えていない。もしかすると、だから「木村剛と裏取引」の巨大オフ会で自分の位置が全然みえなくなってしまったのかもしれない。あ、いやこれはいいわけだな。

イメージとしては、「イノセンス」の最後に出てきた二重螺旋のようなネットによるブログのつながり。