HPO機密日誌

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

会社は誰のもの?

先日、日本人と中国人合同で、企業とは何かについて、かなりつっこんだ議論をした。結論から言えば、「お客様からも、取引先さんからも、『自分の会社だ』と思ってもらえることが永続の要だ」となった。

水道哲学」から始めよう。

いうまでもなく、これは松下幸之助の言葉だ。企業の事業の本質をとらえている。技術革新を重ね、希少であった資源を誰でも使えるようにする事業で、企業の商品を買ってもらえるようになる、つまりは、価値を産む。価値を生むことが企業の使命だ。GE(だったっけ?)が発電所と送電網をつくるまで、電気を使おうと想えば、高価なタービンをまわし、手間ひまかかる燃料とメンテナンスを負担することが必要であった。まして、発電施設を持っていなければ使えなかった。その高価で希少であった電気を、誰でも、どこでも、いつでも、使えるようにすることが企業の事業であった。発電の企業化によって、ひろく使えるようになり、一人一人が負担すべき価格は安くなり、巨大な価値(利益)を産む事業となった。そもそも、「水道哲学」と比喩に使われる水道自体も従来の自然の流れにそった灌漑を超えた送水と排水の体系を作ることによって、誰でも清潔な水を使えるようにした立派な事業だ。まして各種の商品、電球であれ、自動車であれ、建築物であれ、企業化することにより、大量安価な供給が初めて可能となった。

「希少」な資源をよりふんだんに、より安く使えるようにするかが企業の革新であった。近代以降の産業革命とは、資源の採掘、物流、製造、販売の各段階において技術革新とマネジメントの革新により、生産地から消費地までの時間距離を縮め、製造の生産性を数倍、数十倍、数百倍に高め、販売網は洗練され地球を覆った。これらの革新により、大量安価な供給が可能となった。

ただし、企業は大量安価な供給ができるような解決ノウハウを築くこと、そのために、みずからの「価値」を切り崩さざるを得なくなった。最初は希少であったものが、まさに価値を生むための活動によって、その価値を切り下げて行くというのが企業存続の矛盾だ。現代の日本の製造業も、高い技術を持ちながらも、安価・大量供給の一般解を構築してしまったため、この矛盾にどっぷりとつかっているように見える。

しかも、現代において、顧客と企業の精神的な距離はのび、抽象的なものとならざるを得なくなった。高度資本主義の到来だ。これまでひいきにしていた、隣の人がやっている小さな商店や、町工場から、大規模ショッピングセンターへ消費が移ってしまいがちになった。お金の調達も変化し、物理的な近さはかならずしも「ごひいき」を意味しなくなった。べき乗則効果もあり、次第に企業は無味乾燥な大企業の時代へと一見移行したように見える。

こうした中でも、「社会的企業」は新しい企業のあり方を示しているのではないかと問題提起があった。社会的企業とは、以下のような企業だ。

そして、私の得意分野で言えば、地域に根ざした老舗は、地元の方々と深い深い関係を持っている。昨年に引き続き、不思議なくらい街と長寿企業の話しは中国の方々の同感を得られた。

こう眺めたときに、社会的企業も、永続する老舗も、顧客が「これは私の会社だ」と信じていることが共通するのではないだろうか?

現代においては、企業活動がすみずみまでいきわたった先進諸国では飢える人はいなくなった。考えられる限り効率的に資源は使用されて、安価に商品は流通している。企業間の技術や販売網の差は、縮まりつつあるように見える。安価大量供給が実現した環境で、企業が価値を生み続け、存続しつづけるのは、顧客からの「ごひいき」以外のなにものでもない。究極の「ごひいき」とは、企業の所有者となっていただくことだ。これは、日本でも中国でも同じであろう。先にあげた3つの社会的企業の株式所有形態は、まさに所有者と顧客を一致させる方向を向いている。

社会的企業の成功は、もう一度この高度資本主義社会で、「私の会社だ」とお客様に想っていただけるような仕組みを作ることがとても大切ではないだろうか?そのひとつの道は地域への回帰であるのは間違いない。別な道は、非常に高度に「好き!」なことに特化した企業のあり方であろう。インターネットは、新たなソーシャルキャピタル(社会的資本、信頼の和)を産むのではないかと期待していただが、いまのところ希望が薄くなってきている。

私見だが、三井、住友、三菱といった企業グループの繁栄も、お互いにお互いが自分の会社だと想うグループ内の社員がたくさんいたから繁栄してきたのではないだろうか?保険、ビール、不動産、建築、化学製品、嗜好品から製造財まで、グループ内の企業こそがおらが商品であり、おらが企業だという感覚が実はとても大切であったのではないだろうか?

こうした議論を中国人と日本人で共有できた僥倖をもたらしてくださったすべての方々に感謝したい。