HPO機密日誌

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

経営者のよしあしを判断できるのは誰?

昨日に続いて、田中氏のツイートに関してエントリーを起こす。後半は、高度プロフェッショナル制度の目指す生産性向上とはなにかという議論と、日本の企業の経営者の革新能力について論じたい。

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私は前回書いたように高度プロフェッショナル制度とは社員を長時間拘束し、単純労働者のように働かせるのではなく、働き方の多様性を増し、社員にとっても経営者にとっても生産性を増すための手段であると考える。

田中氏の「日本にはイノベーションが必要」という目標設定には異論はない。そのためには働き方の多様性とモチベーションアップが必要だということも、田中氏の同意を得られると思う。私は、「そのための高度プロフェッショナル制度だろう」と思う。しかし、田中氏の認識は、「残業代を払わないでいいという制度は社員を鬼のように時間拘束する」という前提に立っている。長く人事関係をやってきたものとして、そんなことを企業は求めていないと強く思う。広い人と人との交流、リ・クリエイションを通じた自分自身のモチベーションアップ、継続的な学習によってのみ革新的なイノベーションは生まれる。むしろ高度人材、専門性の高い職種に就いている人材こそ企業は自由に仕事をさせている。

高度プロフェッショナル制度と働き方の多様性 - HPO機密日誌

田中氏のツイートを引用しておく。

現場で起こっていることをありていに言えば、社員同士ほどお互いの報酬に対して関心が高い。高いというより敏感だ。誰が本当に成果を出しているか社員同士の評価の方が会社が人事制度、人事担当者を駆使して算出する評価より適切なことが多々ある。結果、それが残業代であろうと、年俸であろうと、自分より出した成果が低い社員に自分より高い給与が払われることくらい、社員にとって悔しいことはない。時間ベースで賃金を算出していると昨日論じたようにより大きな責任、より高い目標にチャレンジしている課長よりも、部下の方が高い給与をもらうということになりかねない。これは大きなモチベーションダウンにつながる。管理職層については管理職手当をよりあげること、業績考課の成果分の賞与への反映を徹底することで解決していくことは可能である。専門性の高い職種については、なかなか難しい。そこで、高度プロフェッショナル制度に基づき、成果と社員間の理解に基づいた給与の支給が可能になると私は考える。

そもそも、田中氏は「過労死するまで働くか、クビになるか」とおっしゃっているが、実際の労働時間は下がり続けている。これも昨日書いたとおり、日本のGDPが成長しつづけながらだ。さらに言えば、就労人口は減り続けているのに!

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https://jsite.mhlw.go.jp/kochi-roudoukyoku/library/kochi-roudoukyoku/topics/topics222.pdf

現代において長時間労働を求める職場というのはほとんど単純労働であろうと思われる。まあ、その単純労働と思われる働き方すらIT化が進み、上記のように時短に結びついているのだがそれは一旦置く。この高度プロフェッショナル制度において期待されている働き方は、本当に一瞬の判断、一瞬の発想により大きく成果が変わる分野でなければならないだろう。繰り返すが、単純労働の延長で年収一千万は実現しえない。

創造的な仕事、決断をくださなければならない仕事というのは、めりはりが激しい。私の経験で言えば、生産性が上がらない時は、企画書のたぐいを書くのに2時間かかっても1ページも進まない。私は朝型なので、翌日に同じ仕事に取り掛かるとその企画書全体が30分ほどで完成してしまうというような経験をたくさんしている。会社的にも、社会的にも、明らかに企画書を完成させた30分の方が生産性は高いのに、時間ベースの賃金では2時間、3時間とだらだらとパソコンの前で唸っているほうが賃金がたくさん生じるというのは矛盾ではなかろうか?なによりどのような会社であれ年収1000万をもらうほどの人材であれば自分の働き方で生産性のあがった時と、そうでない時の自分の時間の使い方の差はよくわかっているはずだ。私だったら正直に、働いた時間ではなく出した成果で賃金を貰いたい。

会社全体で生産性をあげるためには、経営の神様である松下幸之助の言葉が実は一番効く。現在の労働法規の下では徹底され得ないがこの言葉が会社全体で響き渡っていれば、さぞかし生産性の高い会社になると私は信じる。

「知恵を出せ。それが出来ない者は汗をかけ。それが出来ぬ者は去れ」

まず汗を出せ、汗のなかから知恵を出せ | 松下幸之助の珠玉の言葉 | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準

そもそも、高度プロフェッショナル制度は、これまで年棒制等で行われていた労働慣行等を法的に規制することによって逆に労働者側を保護する目的で定められたと理解している。決して「促進」する目的で定められるものではないと。

つぎに、田中氏の言う「能力の低い経営者」の問題。誰が経営者の能力の高低を決められるのだろうか?誰がどの経営者を追放すべきだと決められるのか?誰が適切な経営者を選ぶことができるのか?最後のツイートに田中氏の結論がまとめられている。

経営者の能力とパフォーマンスについて多くの人が様々なことを書いている。例えば、ドラッカーは企業とは誰を顧客とするかで*1決まり、後は効率をあげることだけだと書いていた。ケインズは、「アニマルスピリット」だと。ハイエクは政策によらない経済活動の自由の重要さを強く主張した。兎にも角にも、経営者が優秀であるかどうかを事前に決めることは難しい。

企業の目的と使命を定義するとき、出発点は一つしかない。顧客である。顧客によって事業は定義される。

エッセンシャル版マネジメント 「もしドラ」引用箇所 ぬきがき その3 - HPO機密日誌

kotobank.jp

hpo.hatenablog.com

日本の企業の生産性の低さとは、まさに「誰を顧客とするか」という問題について固定的に考えているからであり、日本のように多くの一般会社員及び会社員の年金基金が株主となっている経済構造においては、株主もまた保守的な顧客像で考えている。経営者と株主の首をすげ替えたから大幅に経営革新が進むということではない。もっと言えば、バブル崩壊以降どれだけ日本の大企業が筋肉質になったか、生産性を向上させ続けてきたか。語りたいことはたくさんあるのだが、先へ進む。

21世紀に生きる私達はソビエトの革命が失敗し国家が崩壊し、中国における社会主義が経済停滞をもたらし、中共の下の資本主義に変わらざるを得なくなったことを見てきた。いずれも、資本家、経営者、専門技能者に企業の経営は任せておけないとし、党、委員会、人民公社で経営させようとして大きな失敗をもたらした。これらの歴史的事実を前にすると「能力の低い経営者と付加価値を増加させない株主の退出」とは大変大胆な主張であると考える。

再び、現場感覚で話しをすれば、多くの経営者と接していて、企業の業績は経営者のIQや、最新の経済動向の知識量とは比例しない。ドラッカーが言うとおり、誰を顧客と定義しているか、どの事業分野を選ぶかで会社全体の生産性、付加価値の総量はほぼ決まってしまうらしい。強いて言えば、その経営者のEQ、あるいはソーシャル・キャピタルとしての企業の役割が生産性を決めていることが良きにつけ、悪きにつけ多い。一体誰が経営者のよしあしを事前に判断できるのか?ぜひ田中氏に教えてもらいたい。

hpo.hatenablog.com

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まだまだ論じたりないことばかり、またエントリー上の間違い等もありそうに思うが一旦ここでエントリーをアップしておきたい。あとで、追加修正するかもしれない。


■追記

私のような法律の素人が反論するよりもはるかに説得力のある議論を高橋洋一先生がされている。

gendai.ismedia.jp

*1:マーケティングで言えばセグメントとなるのだが、ドラッカーの主張することはより根源的な問いかけである。 「真摯さとはなにか?」: ドラッカーの言葉と甲子園 ぬきがき その4 - HPO機密日誌