「みにくいアヒルの子の定理」をご存知だろうか?
渡辺慧先生が提唱されたものごとの認識についての定理だ。たとえば、アヒルと白鳥でも、白鳥と黒鳥でも、それぞれの関係において類似点と相違点を同じ数だけあげることができる。ネットワークで表現される知識だけで人工知能を作ろうとしても、ノードにあたるそれぞれの述語に重み付けがなければ、アヒルと白鳥の区別がつかない。似ている点と違う点を機械的に数えるだけでは、アヒルと白鳥を区別できないわけだ。私は人工知能の研究がなかなかうまくいかない理由はこの辺にあるのではないかと前々から思っている。
ちなみに、述語の重み付けとは機械的に数値を割り振ればよいと言うものではない。J.J.ギブソンの生態学的認識論というか*1、その主体の生き方をかけた論理と感情が一体になった「価値」がものごとの認識には必要でなのだ。そして、認識ができなければ判断も生まれない。
解剖学的にも、人間の感情と記憶をつかさどる扁桃核が人の意思の機能を実現する上で、とても重要な役割を果たしているのだと言う。
ネコの実験があった。「扁桃核」を破壊された猫は、感覚知覚や運動能力的にはまったく正常なまま、行動することができなくなると聞いた。「あれもこれもそれも」というたくさんの選択肢がある時、「感情」と結びつかないと価値判断ができなくなり、なにも行動できなくなるのだそうだ。
そして、いまの日本だ。
ハーデスさんがコメントでいろいろ教えてくださっているが、公務員の方の定期券の問題だの、階段とスロープがどうたらだの、あまりにも常軌を逸した立法が現代日本では当たり前になっている。これは、国家としての「扁桃核」を敗戦によってなくしてしまったからではないだろうか?
今の日本も何が大切かという価値基準がなくなってしまい、「あれもこれもそれも」と判断が国全体としてできなくなっている状態なのではないか。国としての「感情」が取り戻され、価値判断が明確になれば公務員の方々は使命感に燃えてものすごく効率的に働き出すのだろう。
ハイエクを読んで、ちょっとショックというか驚きだったのは、こうした判断停止が日本に限ったことではなく、たぶん戦後の英国をイメージしてえいたのだろうが、先進国で多く起こっているということだ。
- 作者: エイモンバトラー,鹿島信吾,清水元
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私も含めて「自己組織化」を話題にだしてしまいがちだが、人が集まると叡智を発揮するよりも衆愚になりがたちだ。ローマ帝国がなぜ完成された民主主義であった元老院中心の政体から帝政という一人の人格の中に統治をゆだねる政体に移行したのか、よくかみ締めてみる必要がある。「アヒルの子の定理」のパラドックスにはまってはならない。