HPO機密日誌

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

RE: (仮称)立場とイメージ 第二稿

先日あるかたから「ひできさんって学会の方?」と聞かれた。

「いや、違いますけど、どうして?」

「ひできさんのブログのタイトルとか、内容とかそれっぽいでしょ?」

「???!!!****」

いやあ、びっくりした。絶句してしまった。その方によると、よく私がブログのタイトルをとるブルーハーツというのは某在家仏教集団の影響を受けているのだという。もう、ショック...そんなイメージをもたれる、もたれうるのだと...あ、でも、まあ、生きている限り、なんらかの立場はとらなきゃいけないし、立場をとるということは、自分からも廻りが見えるということだし、見られるということだから、しょうがないかなと感じた。

人は概念ではないので、大きさもなく長さもなく重さもないということはない。必ず、どこかに立っていなければ存在できない。逆に言えば、存在するものはすべて大きさがあり、長さがあり、重さがあるということだ。そんな形で存在する限りは、かならず目に見え、手で触り、語りかけることがでできる存在だと言うことだろう。

だからって、これが存在しっぱなしでよいということは意味しない。どうせ、どこかに存在するのなら、あるべくして存在しなければならない。また、もともと人間にはそこにあるために必要な力がそもそもそなわっているという気がしてならない。ここを概念的にとらえると、道をあやまるのだと感じる。

これを広げて、ひとつの国、会社、集団にあてはめると、広報戦略というのが見えてくるような気がする。以下、国を別の言葉に替えてもあてはまるように考えてみる。例えば、国がそこに存在する限り、人間と同じようにはばも、ながさも、立場も発生する。国がなんらかの立場をとらなければ、ならないのだとすれば、かならずそれを別の立場から見られることになる。立場と立場があれば、コミュニケーションが生じる、いや、生じさせなければならない。無造作にただそこに存在しているだけでは、国ではない、人の集団ではない。なぜなら、1+1+1・・・・を繰り返して、1億2千万あまりを数えたときに、単に足し算にしかならないのなら、そこに人がいる必要はない。1+1が3にも、4にも、5にもなるのでなければ、集団、組織、国を形作る必要はない。

また、コミュニケーションを問題にするとき、言語の問題が生まれる。たぶん、立場と立場がきまれば、線分を定義できる。ここでいう線分とは、幾何学ではない、現実の話をしているので、概念としてのはばも、おもさもない、触ることもできない線分ではない。どのような立場を選ぼうとも、立場と立場の間の線分には、長さも、方向も、太さも、重さすらきっとあるのだと思う。そうした手で触ることのできる関係という言葉で呼んでもよいような線分は、お互いに変換可能なのだろう。英語を日本語に、日本語を英語でできるように、翻訳することが可能なのだ。

概念的な話をしたわけではないのに、どうしても概念のような話になってしまう。とても、具体的で血肉の通った、人と人との関係、国と国との関係の話をしたい。

この線分をどうひくかの問題が広報戦略、情報戦であると思う。虚像ではない。自分と自分が見られる姿は不可分のものであるから。自分にないものを見せようとするのではない。

うーん、どうも結局は人とのあり方というのは、自分のあり方なのではないかという気がしてきた。自分は自分だということを、一言でいえなくてはならない。その一言が決まれば、自分と相手との関係、組織と組織の関係、国と国との関係が決まってくる。自分が生きる、組織が生きる、国が生きる場所というものが見えてくる。そんな気がする。

まだまだまとまらなーーーーい。