のっけから凛の魅力を感じてしまう。
しかし、それにしても最初から凛とアーチャーはどこまで「気づいて」いたのだろうか?
いや、もちろんアーチャーは気づいてた。だからこその伏線がはられている。うーん。
のっけから凛の魅力を感じてしまう。
しかし、それにしても最初から凛とアーチャーはどこまで「気づいて」いたのだろうか?
いや、もちろんアーチャーは気づいてた。だからこその伏線がはられている。うーん。
ファイナンスとは考えてみれば株式という経営の結果に投資というコミットメントをする行為の分析であるので、ファイナンスの概念で経営のほとんどは説明可能だということになる。
スルガ銀行といえば、数々の金融危機を乗り越えてきた地銀の雄であると私はずっと思っていた。それがまさかこういう事態に落ちるとは驚きだ。まさにファイナンス用語の「ダウンサイドが大きい」ということなのだろう。
ネットバンキングへの着目や他業態との提携など、耳目を引く個性的な営業戦略を次々と打ち出し、ネット支店を開設した2000年(平成12年)前後には、株価が一時2,590円とバブル期をはるかに超える高値で取引されたが、2018年に1兆円を超える不適切融資が発覚すると、株価は620円まで下がりストップ安となった。
スルガ銀行 - Wikipedia
同族経営の弊害だとよく言われるが、同族経営で責任をもって経営にあたってこなかったら、100年以上も銀行業務を続けられなかっただろうし、バブル崩壊や、リーマンショックも乗り切れなかっただろう。しかし、最後の最後でこのような事態になるということは、正しい経営判断の時に未然に防げたことは評価されず、ダウンサイドの大きな経営判断だけが大きな問題になるという典型。
会社の行く末を決める判断は、どこまで慎重になっても慎重になりすぎるといことはない。同時に、慎重になるがあまり経営判断を遅らせるとか、会社全体の適応度地形の山を一旦降りても更に先の大きな山に登りつづける努力をし続けないと絶滅してしまう。見えるダウンサイド、見えないダウンサイドがある。
最近、IT関係の方とお話していて「Robotic Process Automation (RPA)」という言葉を初めて知った。以下、自分のお勉強のためのメモ。
ちょっと気になるところを抜書きしておく。
- ERPを扱うのが大変であれば、解決策はERPをカスタマイズするか、もしくはホワイトカラーを増やすか(アウトソースするか)、でした。そこにRPA(ソフトウェアのロボット)が登場したことで、オフィス業務も効率性の高い3層構造となったのです。
- RPAツールとExcelマクロの違いとして、ノンプログラミングで誰でもシナリオ(ロボットの動作ルール)を作れることや、作ったシナリオの内容が分かりやすいためにブラックボックス化しにくいこと、ERPやWebを含むあらゆるアプリケーションを自動化できること、等の点を挙げられますが、本質的な違いとまでは言えないでしょう。
- ノンプログラミングのRPAは、非IT部門でも使いこなせる
- RPAのロードマップは、RPA発展の3段階として整理されています。第一段階はルールエンジンによる定型業務の自動化、第二段階は少しAI要素が加わった高度な自動化、第三段階はAI技術の完成に伴う完全な自動化、というのが大よその定義です。
- RPAは、日本が抱える、このような労働人口減少の問題解決にも貢献します。RPAで人間でなくてもかまわない定型業務を自動化すれば、人間が行うべき業務が精査されより効率的に業務を遂行することが可能になるでしょう。
ずいぶん昔に、「部門コンピューティング」ということが言われた。これは、IT部門や、SIerにホワイトカラー業務の自動化を任せるのではなく、部門の担当者自身がOA化(死語)することを意味した。大概の場合、人任せの業務の自動化は帯に短し襷に長しでものの役にたたない。
4thDimensionというFileMakerのいとこくらいにあたるRDBMSで人事データベースをMac上でつくった。仕様づくりから始まり、実際のコーディングも半分くらいはやった。仕事をしていて、自分があたかも仮想環境の中に入り込んでプログラムをしているような感覚を味わった。とにかく、部門コンピューティングをしていて、全く違和感もなく、じつに楽しい思い出だ。
17年ぶりのMac - HPO機密日誌
とはいえ、日本の限らず世界中で自分の業務を論理的に、自動化できるほどステップ・バイ・ステップで説明でき、なおかつそれをコンピューター化できる人材はほとんどいない。
という前提において、RPAって業務をG Suiteでみんなで行うことを当たり前にして、みんなでちょっと苦労してでもGoogle Apps Scriptを習ったほうが生産性あがらないか?
学習とはなにか?大学時代の授業でずいぶん講義を聞いたように思うが、いまだにその本質がわからない。TED、植松電気の植松氏は、「できなかったことができるようになること」だとおっしゃっていた。
ブログで植松氏はこう書いていらっしゃる。
脳の発育を考えたとき、
幼体の形質を保つ成体 - 植松努のブログ(まんまだね)
それは、幼体に近い方が、より発達するのかもしれません。
その際には、単純な繰り返し訓練や、パターン認識による反射の訓練だけでは、きっと脳の発展には不十分なのかもしれません。
もっと思考に重きをおく必要があるのだと思いますが、
でも、思考は人それぞれなので、正解を定義しにくくなります。
でも、人生は、正解不正解が不明確なことが多いです。
それを、無理してジャッジしてしまうと、もしかしたら、思考力はのびないのかもしれません。
「わかった」と思えることは、ものの見方が変わることだと私は考えている。考えがまとまらない時、よく紙切れに思いついたことを書き留めて、それを紙にならべて線や図形でつなげているうちに、「思いつき」に共通する項目や、新しいものの見方が浮かぶという体験をした。
そう、たとえば以前、ブログの記事ひとつひとつこをことばととらえてマインドマップを作った。これは自分にとってかなりおもしろい試みだった。雑然と書いてきた自分のブログの方向性がこの作業によって見えてきた。ブログの記事でマインドマップを作るのは、はKJ法の延長線上にある発想法だと確信した。KJ法にくわしい方によると、KJ法のこつというのは、考えないことだという。
RE: 言葉、言葉、言葉 - HPO機密日誌
「学習」とは、ものや、ことを理解することに終わらずに、「できなかったことができるようになる」、「できるようにする」ことだとすれば、理解=学習では当然ない。しばらく前に、私は知的な「理解」をもって「学習」と勘違いしていることに気づき、ゴルフを始めた。たぶん、もう少し年をとっても読書をしたり、文章を書いたりは続けられるが、身体をつかって「できなかったことをできるようにする」ことを始めるのはいましかないと思ったからだ。それから数年、まだまだ下手くそではあるが、数限りない試行錯誤という失敗を経て、前よりはドライバーで玉をより遠くに、よりフェアウェイ近くに飛ばせるようになった。アプローチも何度かチップインできるようになった。いや、スコアはあまりまとまってはいないが・・・。私にとっては大きな学習体験だ。
そして、ここに立って初めて植松氏が戦っている相手がわかってくる。「学習してもできなかったことができるようにはならない」と挫折している人々だ。たぶん、そうした人々も以前は「できる、できる、絶対できるようになる」と思って努力したことがあったのだろう。あるいは、「私が教えればきっと教え子達は『できる』ようになる」と信じていたに違いない。しかし、長年に渡って「理解」はしても、「できなかったことができるようになる」学習を経験してこなかったがために、「どうせできない」になってしまったのではないだろう?学習をあきらめてしまったのではないだろうか?
そして、さらにこの背景に失敗を許さない日本の社会的な要因があるように思えてならない。
TED札幌の植松氏の「トーク」に感激した。
学校の先生が夢をつぶすという現実は恐ろしい。いや、親の方がはるかに子供の夢をつぶしているのだろうけども。好きなことをつぶさせない子供の育て方がとても大事。「思うは招く」とは、植松氏のお母さまが教えてくれたという言葉。
植松氏はなんとはてなの住人でいらしたらしい。痕跡が残っていた。そして、ブログを拝読する限り地に足をつけた経営をされている立派な経営者であることが伝わる。
僕の宇宙開発は、人の自信と可能性が奪われない社会を作るための手段です。
植松電機がロケット打ち上げをビジネスにしない理由 - 植松努のブログ(まんまだね)
その軸足をずらさなかったからこそ、いままで継続して成長させてこられました。リーマンショックも乗り越えました。
もちろん、その速度は、遅いと思う人もいるでしょう。
だって、どこからもお金もらわないで、20人の仲間の生活を守りながらだし、
そして、なんといっても、人材の成長にそぐわない事業の成長をしたら、転びます。 フェスティーナ・レンテです。(ローマ皇帝アウグストゥスの言葉らしい。ゆっくり急げ。という意味だって。)
でも、最近、人がどんどん育ってる気がしています。だから、頑張って設備投資をしています。
ちなみに、この方と私は同い年。私も後輩達につながる活動をしてみたいと初めて植松氏のTEDを拝見して思った。
昨日、ハラリ氏の「Homo Deus」とSF小説について書いた。スーパーAIが支配する世界がどのような形になるのか、ハラリ氏の「無用な大量の人々」の未来ではなく、すべての人が適切な職業に就ける未来はないかという対比で触れた。この「SF小説」とは私の中でいつのまにかカート・ヴァネガット・ジュニアの「プレイヤー・ピアノ」だと思い込んでいた。Amazon、Wikipdiaで調べて見ると、どうも私の記憶と違う。別の作品らしいと。しかし、探してみたがどうにも出てこない。もうすでに短編集の中の一つであったか、SFマガジンで読んだのかも思い出せない。私が幸せなSF少年だった1980年代の作品だと思う。いまも鮮明に覚えている。それは、こんな物語だった。
誰もが生まれたときから、どのような才能に恵まれ、なにを職業にすべきか自分の特性からも性格からも完璧に分類される未来の時代。人々はとても幸せに暮らしていた。ある時、一人の少年が生まれた。物心つく前から音楽の才能を見出され、ありとあらゆる音楽から隔離され、森の中の一軒家で暮らすことになった。この音楽も、譜面もなくとも、この家には万能の演奏機が備えられていた。音楽の天才だと言われたこの少年はいつしか自分でこの演奏機をマスターし、自分自身の音楽を作り、演奏し始めた。
少年が演奏するたびに、人が集まってくる。音楽を聴くことが最高の幸せであり、才能を一番発揮できる人たちだ。人々はこの少年の才能を褒め称えた。しかし、この少年の音楽のオリジナリティを「汚染」しないために、この人々と少年の接触は禁じられていた。インスピレーションを得るために散歩している少年に、この禁をやぶった聴衆の一人が少年に音楽を渡した。「君にどうしてもバッハのフーガを聞いてほしい。君の音楽の中にはバッハを超える才能がある。」と。
少年は、バッハのフーガに魅入られた。自分が見出しえない音楽の体型としての調和をそこに見た。体制側に気づかれてはならないので、フーガ形式以外でバッハを聞いたインスピレーションから曲をたくさん書いて演奏した。そんなある日、めくらと片足と唖の三人組の男が少年の家を訪れる。
「君はバッハの曲を聞いたね。『聴衆』の中の一人からもらったのだろう。もうその『聴衆』も『処理』した。君の曲からフーガ形式の曲がなくなったのですぐにわかった。しかも、ソナタや、他の形式のいたるところにバッハの調和がこだましている。君は、もう『作曲者』ではいられなくなる。君はもう二度と曲を演奏することはできない。」
そういうと、三人組の男は奇妙な装置を取り出した。
「ここに指入れなさい。痛くはないから。」
少年は抵抗しようとしたが、押さえつけられ装置に指を入れられた。音もなくレーザーで少年の両手の指は切り落とされてしまった。
場面は変わり、道路工事の現場での作業員達が働いている。完璧な社会なので、道路工事の作業員であることに彼らは誇りを持っている。腕っぷしも強い。延々と伸びる大陸を横断する道路を作っているので、移動式の宿舎に彼らは住んでいる。夜になると、焚き火を囲みながら、酒を酌み交わすのが彼らの楽しみだった。威勢もよく、自分の仕事に誇りを持っている彼らだったので、お互いに仲もよく、話しははずむ。そんな中で、一人だけじっと押し黙っている男がいた。
「よお、若いの!そんな隅っこにいないでこっちへ来いよ。そうだ、なにか歌でもうたえよ」
声をかけられた男は迷惑そうであったが、あまりに何度も強要されるので歌をうたった。それは道路作業者達の、いや世界の誰も聞いたことがない歌だった。みな聞き惚れてしまった。歌う男はすっかり作業員達の人気者になってしまった。
そんなある日、男たちの酒盛りに、めくらと片足と唖の三人の男が現れた。
「君はまた約束を破ったね。もうここで働くことはできない。」
作業員達は、歌う男をかばった。
「こいつはいいやつなんだ。なんで歌をうたっただけで、ここから出ていかなきゃならないんだ!」
めくらの男が答えた。
「この世界において人は誰も一番自分にあった仕事をすることができる。誰もが満足しているすばらしい社会だ。しかし、彼の歌には反体制の響きがある。君らも、彼の歌を聞いて、もの悲しい、すべてが虚しいような想いを持たなかったかね?」
そう言われた答えられる男は一人もいなかった。みんな誰もが自分の仕事が大好きだったし、確かに歌う男の歌にはなにか悲しさが含まれていたことを否定できなかったからだ。今度は、歌う男の声帯が切り取られてしまった。
この後、本来の物語ではもうひとつのエピソードが語られる。しかし、私には思い出せない。もうひとつの仕事でも音楽を忘れられなかった男は、とうとう目もくり抜かれしまった。3つの職業のいずれもまっとうすることができなかった元の『作曲家』はめくらと片足と唖の三人組に聴く。指も声も視力もない彼がどう質問できたのかも思い出せない。
『どの職業についても音楽をわすられなかった私はどうなるのですか?」
めくらが答える。
「君にはうってつけの仕事がある。」
それから、十年後、完璧な社会をゆるがす人物のもとに、めくらで唖で指のない男が盲導犬とともにあらわれることが伝説として語られるようになった。史上最も徹底した社会の不適合を狩り出す男だと言われた。
どなたか、この物語をご存知の方がいらしたら教え欲しい。
昨日に続き、ユヴァル・ノア・ハラリのTED、TEDトークを見た。
「Homo Deus」はまだ本屋の立ち読みレベルなので、以下の私のハラリ氏の製造現場理解への懸念はすでに内容に含まれている可能性がある。
多少なりとも、製造の現場にかかわらせていただいているものとして、現代においてもAIや、データの流通を可能にする社会基盤、あるいはその入れ物そのものは圧倒的に人力で作られている。あるいは、その製造機械のメンテナンスは人力以外のなにものでもない。例えば、世界で最も最先端であるトヨタの製造ラインはよく止まることで有名だ。言及するまでもないほどのビジネスの名著、大野耐一氏の「トヨタ生産方式」によると、トヨタは「自働」という「にんべん」のつく「働」にこだわるのだという。製造ラインの人が「しまった!」、「ここがきちんとできていない」となるとたとえ期間工であっても目の前のひもを引いて製造ラインを止めることができるのだそうだ。実際にラインを見てきた人によると、見事なのはその後の対応。わらわらとどこからともなく十数人の人が集まってきて、目の前の仕掛りへの対応をする人、前後の製造計画を調整する人、問題の根本的な原因を追求し解決する人などあっというまにミーティングが行われ、対応がなされ、なにごともなかったがごとくラインが動き始めるのだという。私の知る限り、ほかの製造ラインでも、順調に作っている状況よりも製造の組み換え、金型の入れ替えなど、たぶん稼働していない時間の方が圧倒的に長い。
ということは、圧倒的なAIが実際に存在するようになったとして、ハラリ氏が主張するような"useless people"の存在をAIが許すわけがない。逆に、世界中のデータをすべて「アルゴリズム」で処理できるAIもしくは、「AI群+ひとにぎりのスーパー人類」が存在するようになったとしたら、すべての人類を活用した製造ラインなり、サービス提供に組み込むようになるだろう。なぜなら、私のような凡庸な人間が考えても、ひとにぎりのエリートと圧倒的に「あんたは無価値だ」といわれる層に分けたとしたらその社会は限りなく不安定になるからだ。
ここで議論すべきは、20世紀の社会主義社会が陥った社会的再計算問題だ。今の所、スーパーAI、スーパー人類が出ても、それらはお互いに予測しあえないので、21世紀の現在においても、原理的に「社会主義計算問題」の不可能性は有効だ。ここでもハラリ氏の真意をあとで調べたい。
想像しうる最高速の計算機があったら完全な社会体制は設計可能か?仮に「宇宙の究極の答えは42だ」と答えられる性能の計算機があったとしても、常に先はある。その計算機を利用して行動する人間がいる。最高速の計算機を利用する人間の行動は、最高速の計算機では予測不可能となる。その他、語るまでもない様々な相互作用とブラックスワン的不可知性により、完璧な社会制度は設計し得ない。
ファシズムとカール・シュミット - HPO機密日誌
ちなみに、SFの世界ではこうした問題はかなり分析されている。たとえば、すべての人々が「システム」により完全な職業に割り当てられる世界を描いた「プレーヤーピアノ」はとても有名だ。
これ以外に完璧に人が割り当てられた社会におけるピアニストに生まれついた男の話があったのだがタイトルが思い出せない。よくよく調べる。