HPO機密日誌

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

Marine Life Institute

なんと「ファンディング・ドリー」に出てきた「海洋生物研究所」がアトラクションになっていた。

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hpo.hatenablog.com

s.cinemacafe.net

トームライダーのお化粧直しではある。「ニモ」の世界に入り込めるアトラクション。子供達は大喜びするだろう。プレオープンで入れたのはラッキー。

そうそう、それからハンガーステージでの未見だったアトラクション、というかミュージカル、「アウト・オブ・シャドウランド」も見てきた。

www.tokyodisneyresort.jp

ミスティックリズムは大好きだった。

ディズニーシーで私が大好きな「ミスティックリズム」。異なる肌の色、異なるリズム、異なる踊り方で、最初は対立的に踊る二つの部族が、道具を交換し合い、踊りが混ざり合い、水と火と土の調和したひとつのダンスへと集約していく。そういえば、このパフォーマンスでも水の精霊、火の精霊、土の精霊の3つのトーテムがダンスで語られる。

ダンス、ダンス、ダンス - HPO機密日誌

感想は・・・、この方とほぼ同じかな。

GHOST IN THE SHELLにゴーストは入っているか?

ようやく見てきた。この日のために出来る限り情報、感想を遮断してきた。2D吹き替え版ではあったが。いや、正直に言えば吹き替え版でよかったのかもしれない。

youtu.be

ghostshell.jp

正直、前半あまりに押井版映画へのオマージュ、レスペクトが多すぎこのままで大丈夫かと思った。看板から、犬から、名前から、押井への想いが込められていた。しかし、レスペクトが多ければ多いほど押井の個性こそが語れた「物語」の魂、ゴーストが抜け落ちていっているように感じられてならなかった。

後半になり、次第にテンポも良く、ハリウッドという国際的に売らなければならないがための独自の展開に至って「魂」を感じた。ネタバレになるのだろうか?桃井かおりの登場に至ってはサプライズすら感じた。

攻殻機動隊」の中で、くりかえし語られるキーワードの一つは、集中化による多様性の喪失だ。大量生産により生み出された自分と全く同じ身体を持つ別人格との出会い、たぶんグーグルのごとく単体で十分にネットを覆い尽くしてしまう力をもつネット生命体2501、自分の魂の領域までハックされ妻も娘も過去の記憶も人形使いにより偽造されてしまう清掃局員...「攻殻機動隊」には、個性、多様性を喪失するエピソードが重層的に語られている。これらのエピソードは、いまのままの技術では不可能なこともあるが、2chの匿名問題のように表現された自分が自分であることが証明不可能な現代のネット社会に棲息する私達なら、十分この混乱の深さを実感できるのではないだろうか。

[書評] 攻殻機動隊 Ghost in the Shell : HPO:個人的な意見 ココログ版

結論から言えば、表現のレベルでは押井にレスペクトしているにもかかわらず、押井版とは全く違うハリウッドの語る「攻殻機動隊」、いや、"GHOST IN THE SHELL"として見るべき映画なのだろう。

ハリウッドで語り直されることによって、逆に押井の個性がもつ魂、普遍に通じるゴーストの存在が明らかになったのだと。

「成田 あの一年」を読み始める

これまた引越しの効用で、昔の本が出て来た。

成田あの一年 (ふるさと文庫 (177))

成田あの一年 (ふるさと文庫 (177))

成田空港の閣議決定の年に生まれた私としては、成田の激動はまさにリアルタイム。本書の冒頭にも、丙午の年に決まったことから波乱の予感と書いてあった。ああそうですかと、私も丙午ですよ、波乱の人生ですよと。テロをめぐる話でも、改めて自分の人生に刻み込まれているのだと自覚した。

togetter.com

「理趣経入門」読了

大変、感激した。本書の内容はよくよくこれから自分にできる限り深く理解し、行動しなければならない。いまは、あえてその感動のまま浅薄な理解をメモしておきたい。

図説「理趣経」入門

図説「理趣経」入門

私に「理趣経は読んでおいた方がいいよ」と進めてくれたのは、医者で坊主という多才な私の旧友だ。なにごとにも理解が深い彼は、もとから真言宗の僧侶のおうちで生まれ、得度までした。そうなんだ、そうだね、読んでみるよとその時は深く考えずに受け止めていた。それでも、彼の勧めに従ってAmazonで本書を購入した。Amazonで履歴を確認したら、なんと一昨年。ずいぶん「積ん読」していたものだ。

改めて、読み始めてみて、理趣経とは金剛界曼荼羅の成身会の内容そのものであることを知った。理趣経十七段のひとつひとつの段が深い仏教の教えを、切れるのが不思議なくらい4つずつに分けて懇切丁寧に説明されている。東西南北に配置された仏様が象徴する教えの深さを本書は大変わかりやすく伝えてくれている。

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理趣経、そして、成身会の中にまさに人の生きるべき、人の知るべき宇宙が描かれている。とても活き活きと。それをいま感じられる。東西南北(東が下)と中央の5つの仏様。この構造がが、マクロにも、ミクロにも続いている。まさに立体的な曼荼羅がそのまま描かれている。

曼荼羅がひとつのテーマを4つに分ける構造であることは、宮澤賢治の「雨ニモ負ケズ」で強く感じた。

hidekih.cocolog-nifty.com

そして、理趣経全体がこの構造で出来てる。それは、木火土金水の五行をはるかに超える深さだ。中国の五行など仏教曼荼羅のまねに過ぎないとすら思える。

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そして、理趣経が十七段であるのも、成身会の3×3の9つの仏様と、そのまわりを囲む東西南北の8つの仏様*1の十七であることと関係が深いように思える。

とにもかくにも、現在の私の浅薄な理解から言えば、仏具から始まって、十七清浄句句、仏様のお姿、梵字、そして、理趣経の構造そのものまですべてがつながっていて、すべてが曼荼羅の構造になっている。あまりに素晴らしい。真言宗の宗徒の家に生まれ、仏教の信仰に導かれていたことに深く感謝したい。

hpo.hatenablog.com

更に感激を深めたのは、実はいまオフィスの引っ越しの真っ最中なのだが、荷物を整理しているうちに、まさに私に理趣経を勧めてくれた友人の父君が書かれた十七清浄句についての論文のぬきずりが出てきた。曼荼羅と「四つ」構造に関わる部分を論じておられた。内容は私の理解を超えているが、それでも、これはきっと深いご縁なのだと。まさに今日、この論文を読んだ。

よくよくいまの感動を菩提心につなげ、行動していきたい。十七成句の「あうん」については、別途エントリーを起こす。

*1:中心がすでに曼荼羅になっているので、9−1で周囲の仏様は八つになる。気がついて唖然とした。

自衛隊の根拠法

憲法記念日にふさわしい歴史を教えていただいた。

なるほどと。

ポツダム緊急勅令とは、大日本帝国憲法第8条第1項の「法律に代わる勅令」に関する規定に基づき昭和20年(1945年)9月20日に公布・即日施行された「ポツダム」宣言ノ受諾ニ伴ヒ発スル命令ニ関スル件(昭和20年勅令第542号)の通称である。この緊急勅令では、第二次世界大戦後、連合国軍の占領下にあった日本で、連合国軍最高司令官の発する要求事項の実施につき特に必要がある場合には、法律事項(帝国議会がその成立に関与すべきことになる)であっても、政府が命令で定められる(罰則も可)とした。降伏文書に定められた“ポツダム宣言の履行と、そのために必要な命令を発しまた措置を取る”に基づく。

ポツダム命令 - Wikipedia

id:finalventさんのおっしゃっていたのはこっち。

警察予備隊は、1950年(昭和25年)8月10日にGHQポツダム政令の一つである「警察予備隊令」(昭和25年政令第260号)により設置された武装組織。

警察予備隊 - Wikipedia

で、この警察予備隊自衛隊になったと。その意味では、憲法の上位に置かれているポツダム政令自衛隊の根拠法となり自衛隊はその起源からして憲法違反ではないと。そして、ポツダム政令としていまだに生きた法律として存在している条文があることを考えると、日本国憲法はあくまで帝国憲法の改正としての憲法でなければ根拠を失うということになる。

日本の社会は日本国憲法だけで成り立っているのではないと主張したい。憲法制定にいたる歴史と精神があって、いまの時代がある。成文憲法である日本国憲法がすべてではない。昭和天皇立憲君主制への精神を広く学ばなければならない。

明治維新以来、戦争だの、平和だの、好不況も含めて、いろいろあっても、五箇条の御誓文の日本の精神はその歴史と天皇とともに確実にある。現在の日本国憲法だけで象徴としても日本の立憲君主制は成り立ってはいない。

日本の憲法とは不文憲法だ - HPO機密日誌

いやはや、やはり現代史はみっちりと高校で教えてほしいものだ。こんな日本の国の根本に関わることすら知らなかった。

ということは、一体全体この前の安保法案群に関わる議論はなんだったのだろう。

九条が否定してる戦争には、自衛戦争は含まれないというのが国際法上の解釈であると考えられる。この条文は個別的、集団的自衛権を否定するものでは全くないと。であれば、当然今回の安保法案、いやもう通ったので安保法も国際法上適法であるということになる。

平和憲法なんて世界の当たり前 - HPO機密日誌

米国の事情で日本の統治の根本が決まり、憲法が決まり、武装解除といいながら自衛隊を設置させられたと。恥辱の歴史以外のなにものでもない。

「無縁・呪縛・貨幣」読了

安冨先生の「無縁・呪縛・貨幣」が読みたくて、「貨幣の地域史」を初めて図書館でカードを作って取り寄せてまで読んだ。

貨幣の地域史―中世から近世へ

貨幣の地域史―中世から近世へ

本論文において安冨先生は、網野史学に切り込んでいる。網野善彦の史学研究から、定式化された二つの形の矛盾をいかにとらえるかという問題だ。それぞれが具体的な歴史学思考から生まれた定式が形式的には矛盾して見える。

「共同体=有縁」 / 「市場=無縁」

「世俗権力=有縁」 / 「共同体=無縁」

この矛盾を、有縁とは「縁結び」、「無縁」とは「縁切り」と捉えることにより、矛盾ではないと安冨先生は解かれる。ご自身の要約をひかせていただく。

 まず、無縁/有縁という静的な対立の背後に、縁切り/縁結びという動的な操作があることを主張した。人々をつなぐ縁が呪縛がに転じたとき、ひとはその縁を切る衝動に駆られる。この二種類の操作がそれぞれ要素となり、無縁の世界と有縁が構成されているが、その二種類の行為が不可分なものであるのと同じように、その二つの世界は相互に依存する。
 縁切りの衝動を引き起こすものはハラスメントによる呪縛である。これは相手の情動と違う意味を押し付けることによって行われる。それはフィンガレットのいう「魔法」を使って他者に正しく依存することができない者が使う悪辣な手段である。そして呪縛に掛けられた人は、罪悪感にとらわれ、苦しむことになる。
 貨幣とは、この魔法を即席で成立させるための装置だと解釈することができる。この装置を用いることで、人は他者に容易に依存できるようになる。この機能が強い関係性を結ぶ圧力を減じさせるために、「共同体」への脅威となる。しかし、だからといって、貨幣が人々の縁を切るばかりのものなのではない。それは弱い縁を成立させるものだからである。しかし同時に、貨幣さえ持っていれば魔法が使える、と勘違いすることによって、別の呪縛が生じることにもなる。この間違った新年が社会を不安定化する力をも生み出す。

有縁、縁結びは生きていく上で大切なことではあるが、一つ間違えると呪縛となってしまう。徳と呪縛についてフィンガレットの論語の研究から言及されていた。

hpo.hatenablog.com

どこかで読んだことがある議論だなと想ったら、「複雑さを生きる」の構成と同じだなと。

「道徳意識」をどう定義するかに大きく依るのだが、謙譲というか、(道徳意識とは)「学びあうこころ」ではないかと私は思う。自分が自分を最高に大事だと思っているように、相手も相手自身のことを最高に大事に思っているという感覚が道徳の始まりではないか?道徳的に生きるとは、生涯を通じて学び続けることだ。安冨先生の「ハラスメント」の議論は、この自分から相手を学習することにより信頼する能力を悪用する、自分自身を疎外する「邪悪な存在」がいるということだ。

「道徳意識を持つがゆえに、邪悪な存在になることも可能となった」 - HPO機密日誌

2007年なら私はあまり成長していないらしい。本論文にも書かれているが、有縁/無縁、道徳、ハラスメント、に対するアプローチは「貨幣の複雑性」の議論とリンクしている。

「学び合う」という戦略と、「裏切る(ハラスメント)」という戦略において、ゲーム理論に従えば確実に裏切りに軍配があがる。しかし、安冨先生が貨幣と商人をめぐるシミュレーションで明らかにしたように、「一度は相手を信用(学びあう)するが、裏切った相手は二度と信用しない」ことが多数のプレーヤ間の長い時間にわたる戦略においてはドミナントになる。

「道徳意識を持つがゆえに、邪悪な存在になることも可能となった」 - HPO機密日誌

次は、満州関係の希少本を図書館で取り寄せるかな。「満州/貨幣/呪縛」とようやく安冨先生のご研究がひとつにつながって見えるようになってきた。

「満洲国」の金融

「満洲国」の金融

「満洲」の成立 -森林の消尽と近代空間の形成-

「満洲」の成立 -森林の消尽と近代空間の形成-

フィンガレットの魔法

以前、「徳の起源」から論じられる進化心理学の知見と、安冨先生の「貨幣の複雑性」をからめて論じようとしたことがあった。

hpo.hatenablog.com

しかし、このエントリーよりはるかに早く、安冨先生は「無縁・呪縛・貨幣」(「貨幣の地域史」収録)の中でこの問題を論じておられた。

貨幣の地域史―中世から近世へ

貨幣の地域史―中世から近世へ

道徳とは、まさに「魔法」であると。互酬の形を取りながら、相手に贈り物をすることによって、相手の行動に呪縛をかけることであると。「徳」であっても、自分の行動により相手の行動をコントロールするメカニズムがここには含まれている。フィンガレットは、孔子の研究から「徳」という「魔法」を発見したという。

孔子―聖としての世俗者 (平凡社ライブラリー)

孔子―聖としての世俗者 (平凡社ライブラリー)

ここで、相手を束縛するためだけのために「徳」の力を使うのかという矛盾が生じる。本来、徳とはお互いの「道心」(共感するこころ、正しいか正しくないかの判断するこころ)に呼びかける「力」だ。諸刃の剣であり、相手に行動を強いるためには、自分自身が日常から高い行動規範をもっていることが前提となる。しかし、安冨先生のおっしゃる相手の言葉に耳を傾け、相手について学習するふりをしながら、相手を利用しようとするハラスメントという観点に立てば、本物の徳とにせものの徳の区別がつかなくなってしまう。

さらに安冨先生は、お金よ使い方によって「徳」の代わりになるとも。地獄の沙汰も金次第かと。

それでも、と私は想ってはいる。本論文の主題である網野歴史学の有縁の世界と縁切りについては別に論じる。まさにスケールフリーネットワークの「繋ぎ直し」の行為が、縁切り/縁結びであると感じた。


◾️追記

お金の価値の普遍性という話し。少し違うが。

ある音楽家の娘「お父さんが死んだら愛用のヴァイオリンもお墓に入れてあげるね」→価値の分からない者には『お金』で理解させないとダメ?という話 - Togetterまとめ