1年前の山形浩生さんの「半脆弱性」批判記事を読んだ。山形さんのように先を見通せる力を持った方には、タレブはあまりに冗長で、あまりに「自慢まみれ」に見えるのだろう。
読めば読むほど本書は自慢まみれでうんざりしてくる。信者なら「タレブ様ってすごいわ!」と本書を読んで感銘を受けるのかもしれない。オレは本を読んでる、古典を見ている、といった自慢を見て、タレブが本当にえらいと思うのかもしれない。アラビア語ができるとかいうので感心している人も見かける。でも、ぼくはそうした自慢がほとんど本筋と関係ないと思う。それをなくせば、たぶん上下巻の無用に分厚い本は、30ページくらいで全部おさまるんじゃないかと思うんだ。
もう相変わらず山形先生は本質をついた指摘をずばっとされている。確かに、私にとってこの分厚い本書は、祖母の一言に要約されてしまう。あとは、フラジリスタになるな、歩け、習慣化された安定しな生活など求めるな、ネットワークのハブを全面的に信用しすぎるな、などなど。うーん、あとなんだろう。一ファンからすると、統計数学の論文も出しているタレブがわかりやすくその考えをエッセイとして説明してくれているだけで満足なのだけど。たぶん、この人の言っていることは学術的基礎があるだろうと期待してしまう。そんな私は、山形さんからは「信者だ」と言われて終わりかな。
タレブの主張の多くは、ネットワーク理論、数学的にはグラフ理論で説明可能だと考えている。バラバシと共同研究、共著とか書いてもらえるとすごく興味深い気がするが。
もっとも、バラバシも近著はかなり散漫な印象だったので二人合わさると発散していってしまいそうかも。
タレブについて私が共感してしまうのは、彼が古い伝統を持つ街の出身だからかもしれない。山形さんのもともとのご職業の地域開発に深く関わる話しだと私は思うのだが、長く長く繁栄していきた街は、通常の意味でのリスク回避、フラジリスタ的行動では説明できない。そこに住む人々のその街への不合理な愛や、リスクや危険が存在しても生き延びる「街の伝統」という工夫がある。まさに、祖母の「我が家は(明治、大正、昭和、平成の)大変動があったから生き延びてこれた」戦略がある。タレブの文章を読んでいると、長く生き延びてきた一族の末裔である誇りと知恵を感じる。そのプライドの根は、タレブ自身も完全に意識化、言語化できていないのではないだろうか?先祖からの家の伝統を心から誇りに思うように、タレブの自慢の根には彼自身の出自に対するプライドと、自分をここまで教養人として教育してくれた家族への感謝があるのではないか?そして、その誇りこそが地域開発になくてはならないものなのだと私は山形さんに申し上げたい。