HPO機密日誌

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

歴史というカオスの記述としての「サピエンス全史」

キリスト教がローマの国教となり、現代に至るも最大の世界宗教となるのは、歴史のカオス的ふるまいであったと。いわば、キリスト教ブラックスワンであったと。

その時代の人にとって、とうていありえそうもないと思える可能性がしばしば現実となることは、どうしても強調しておかなければならない。西暦306年にコンスタンティヌスが帝位に就いたとき、キリスト教は少数の者しか理解していない東方の一宗派にすぎなかった。当時、それが間もなくローマの国教になるなどと言ったら、大笑いされ、部屋から追い出されただろう。今日、2050年にはクリシュナ教がアメリカの国教になっているだろうと言うのと同じことだ。1913年10月、ボリシェビキはロシアの小さな急進的派閥だった。思慮分別のある人なら、彼らがわずか4年のうちにロシアを支配下におくなどとは、けっして予測しなかっただろう。西暦600年に、砂漠に暮らすアラビア人の一集団が、大西洋からインドまでの広大な領域をほどなく征服するなどと言う考えは、それに輪をかけて荒唐無稽だった。実際、ビザンティン帝国の軍隊が最初の猛攻を退けていたなら、イスラム教はおそらく、一握りの情報通しか知らない無名のカルトのままになっていただろう。その場合は、メッカに住む中年の商人に対する啓示に基づいた信仰が普及しなかった理由を学者はいとも簡単に説明できるはずだ。

https://twitter.com/hidekih/status/875829172026785792

歴史を研究すると、いかにも過去の歴史の動きが決定論的であると誰もが主張したくなる。ハラリもそのような文脈で人類10万年の歴史を語っているのだと思いながら読んでいた。しかし、歴史はカオスであると彼は言う。

一次のカオス(多量要因からの計算結果を一次で出す。天気予報など)
二次のカオス(株価予想や石油価格予想など、予想値の発表が更に対象事象に影響を与えること)

一次のカオス、二次のカオス、革命 - とめどもないことをつらつらと

もっとも、ジャレド・ダイアモンドも歴史の流れをカオスとして説明していた。

最後に作者は科学的な分析の対象としての人類史について考察し、カオス理論をあげている。カオス理論、べき乗則で歴史を読み解く試みはある。生成と消滅があれうからこそ、歴史的なプロセスをカオス理論、べき乗則でとらえられる。

人類の歴史は虐殺の歴史 - HPO機密日誌

例えば本書で示されるハラリ氏の仏教理解の深さに驚嘆する。カオス、非線形だと言っておきながら、見事に歴史の展開の中で肝となる要素を指摘している。

彼の「智恵」の根源はどこにあるのか?

ユヴァル・ノア・ハラリは厳格なヴィーガンで、1日2時間の瞑想を日課にしている。瞑想は集中力を養うのに非常に有効なのだそうだ。

「人類は10年後には細胞肉を食べ、100年後には消えるでしょう」|『サピエンス全史』の著者が17の質問に答えます(後編) | クーリエ・ジャポン

仏教とは執着を捨てることだ、幸福を求めるからこそ執着が生まれ、常に不幸、不満足となると、ハラリ氏は言う。その瞑想によって導かれた彼の幸福論なのだろう。まさに、線形思考、西欧的論理思考を超えた視点にハラリ氏の魅力はあると想う。彼はすでに「私」を捨てているのかも知れない。

そもそも線形にしか展開しない「私」という意識すら幻想である可能性がある。最近の脳科学の研究成果によれば、「私」がボールを認識して、「私」が「打て」と指令して、バットをボールにジャストミートさせるには、脳神経の伝達スピードは遅すぎる。「私」の後ろに誰かがいて「私」にボールの認識を与えながら、同時に「打つ」動作の指令をだしているとしか考えらない。実際には後ろの誰かは存在せず、脳内の非線形な過程がジャストミートを可能にしているのだという。
であれば、「私」を捨ててしまえば、思考はおのずと非線形型になり、複雑な相互作用を含む過程を脳内でシミュレートできるようになるのではないだろうか?

非線形現象を線形思考できるか? - HPO機密日誌