HPO機密日誌

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

盛りをすぎた中年男

1987年に先輩方が公演した「ワーニャ伯父さん」をDVDで見た。1987年に21歳であった私は全く理解できていなかったと、今更ながらに想う。2012年の今、47才のワーニャ伯父さんの黄昏に自分が重なる。年をとっていく女も手に負えないが、盛りを過ぎた男も情けない。

FESTE(フェステ) - GB's Library

参考になる動画を探した。1970年BBC製作の「ワーニャ伯父さん」のフルバージョンがYoutubeで見つかった。

日本語訳は、青空文庫にある。正直、この青空文庫の日本語をキャプション代わりにしながら、DVDを見た。

本作を40才前に書いたチェーホフはやはり天才なのだろう。凡人の私はワーニャと同じ年に到達してようやく衰え行く男の情けなさを理解できるようになった。

40代も半ばになると、もう引き返すことはできない。全く新しいことに挑戦するにも遅すぎる。日々、からだと気力の衰えに気づかざるを得ない。なすべき仕事と果たすべき責任は積み上がり、いくら稼いでも稼いでもお金は出て行くばかり。若者と比べていささか、世智に長けてくることもあるが、それは狡猾さと若さへの嫉妬の裏返しにすぎない。

盛りを過ぎてしまったからこそ、女に救いを求める男もいる。ワーニャも、医師のアーストロフも、たかだか27才の女、エレーナに手玉に取られる。いや、1890年代の当時であれば27才ももう盛りを過ぎた女なのだろうか?47才のワーニャが「60まで生きるとすれば、あと13年」といっている。現代の年齢と比べるには、もう1、2割増やして考えた方がよいのだろう。いずれにせよ、救いを女の中に見いだす男は情けない、情けなさ過ぎる。まして、若い女に走る男は惨めだ。そう、セレブリャコーフ老教授の老害はあまりに惨めだ。若く美しいエレーナを当惑させることしかできない。

ラストでソーニャが語るように、ワーニャのように盛りを過ぎた男はただただ日々を生きていくしかない。生き抜いていくしかない。死という慰めが来る日まで、自分の不幸と衰えに耐えていくしかない。そして、いつしか諦観し、セレブリャコーフのようなわがままな年寄りとなりはてていく。ここをとらえ損なうと、盛りを過ぎてしまったという自覚は、中年男にとって人生最大の危機となる。なんとまあ、人生とは寂しいものだ。

中年男の危機は、最悪の場合、家族にすらも裏切られる。いや、自業自得なのだろうが。いつか、自分が演じた「リア王」について語る。だが、まだリアまでは同じ心境にはなれない、いや、なれないことがまだ幸せなのだが。

「ワーニャ伯父さん」を演じた冒頭のNさんは、40代を生ききれなかった。ご遺族に、心からおくやみもうしあげる。