結局、日本という国は絶対独裁をゆるさない政治史の国であった。太平洋戦争に至る道では、数多くの近代戦争に必須である国家総動員体制のリーダーたるべき人財が失脚した。
「統帥綱領」によって「包囲殲滅戦+短期決戦」によって「持たざる国」日本でも対ロシア(ソ連)戦だけはしのごうとした小畑敏四郎も、2.26事件の影響でその作戦思想の発現すべきタイミングを見極めることなく失脚した。天皇絶対親政を求める青年将校たちの暴発によって逆に皇道派が主導権を握れず北進から南進へ政策が変わったことは皮肉としかいいようがない。
「最終戦争論」をひっさげ、満州事変まで起こし、30年かけて「持たざる国」を「持てる国」にしようとした石原完爾もあっけなく左遷された。1940年の講演内容を見ていると、この人がもう少し日本の政策決定の中心に近いところにいたら、ABCD包囲網の解決の奇策を生み出し、1941年の太平洋戦争を回避していたのではないかと思わせるものがある。
石原完爾の人物評価だが、かわぐちかいじの「ジパング」に出て来る石原完爾は過大評価かもしれない。「獄中の人間学」では、満州の官僚団の筆頭であった古海氏と石原完爾の葛藤が記述されていた。ごくつまらない官僚の地位の問題で、満州を「逃げ出さ」ざるを得なくなったと。なかなか人間くさい話しではあるが、ある意味独裁者を許さない日本の体質が憲法を異にする満州国であっても発揮されたとも言える。
日本と同様独裁を許さない古代ローマの共和党体制の中で、カエサルは最高神祇官、護民官、終身独裁官を一身に兼ねることにより帝政への道を開いた。太平洋戦争開始時に総理大臣であった東條英機も、陸軍大臣、参謀総長を兼任して権力の集中を計ろうとした。これは、逆に思想性が少ない、天皇の意思に忠実であろうとする東條であったから許された。それでも、陸海軍の統合作戦すら実現することはできなかった。遺言の言葉の通りである。
「(統帥権独立は過ち)最後に軍事的問題について一言するが、我が国従来の統帥権独立の思想は確かに間違っている。あれでは陸海軍一本の行動はとれない。」
リーダーにできることは腹を切ることくらい - HPO機密日誌
この陸海軍の分断を生んだ統帥権の淵源、大日本帝国憲法はそもそもこうした独裁的権力者を許さないことを企図して書かれたという。
明治9年(1876年)に記した「憲法意見控」では、これから制定する憲法は聖徳太子の十七条憲法とは異なるものとし、欧米諸国の法制度だけを問題視していたが、のちに小野梓の『国憲汎論』に触発され、政治のための国典研究の必要性に目覚め、国文学者の小中村清矩、落合直文、増田于信らと交わり、小中村義象を助手として、『古事記』、『日本書紀』以下の六国史、『令義解』、『古語拾遺』、『万葉集』、『類聚国史』、『延喜式』、『職原鈔』、『大日本史』、『新論』などを研究する。
(中略)
その後、伊藤博文のブレーンとして活躍し、明治15年に発布されることになる軍人勅諭の起草に関わる。さらに伊藤博文のもとで、伊東巳代治、金子堅太郎らと大日本帝国憲法の起草に参加、また皇室典範の起草にも関わる。
明治19年(1886年)末から明治20年(1887年)初めにかけて、小中村義象を随伴して相模・房総を訪ねた際、鹿野山登山中に小中村の示唆から『古事記』における「シラス」と「ウシハク」の区別に着目、のちに「シラス」の統治理念を研究する。
井上毅 - Wikipedia
仮にカエサルのような帝政が実現し、完全な国家総動員を可能とするファシズム体制ととれたとしても、北進政策を完遂できたか、南進の場合なら包囲殲滅戦思想を撤回できたか、あるいは1941年の対米開戦を回避できたか、持てる国へと経済成長させられたか、歴史に「もしも」はない。ただ、明治、大正、昭和、平成といくたの戦争をはさんでも、天皇の御代が続いてきたという厳然として事実はある。
ところで、統治するあるいは支配するという意味の古語に、シラスとウシハクと言う二つの語があり、両者は はっきりと区別して使われていたという事実がある。シラスは「知ラス」「治ス」で権力関係を伴わない精神的な統治を表し、ウシハクは「領く」で権力関係に基づく領有支配の意味を表すとされている。そして古事記日本書紀を始めとする古典によれば、天皇はシラス者であり、決してウシハク者ではない。これは、自らは祭事を主として直接政事に関わることはせずに、為政者をもって政事を行うという天皇における統治のありかたを示していると言える。
天皇統治の性格
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