HPO機密日誌

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

「百人斬り」事件と山本七平

ようやく「私の中の日本軍」を読了した。山本七平がここまで深く南京の「百人斬り」事件の虚報について検証していることを本書を読み始めるまで知らなかった。

私の中の日本軍 (上) (文春文庫 (306‐1))

私の中の日本軍 (上) (文春文庫 (306‐1))

私の中の日本軍 (下) (文春文庫 (306‐2))

私の中の日本軍 (下) (文春文庫 (306‐2))

本書に納められた内容が文芸春秋に連載されていた当時、本多勝一との間で当時論争にまでなったのだそうだ。

ポイントはいくつかあった。いずれも山本七平のなまなましい戦争での体験を下に検証されている。読むのすらつらい体験が記されていた。山本七平にしてみれば、ずっと封印しておこうと思った体験であったに違いない。

  • 浅海記者と事前に「談合」があって、その後他の記者を巻き込み作成された記事であること。浅海記者の「戦意高揚」の特ダネをものしたいという動機があり、向井少尉を「嫁さん欲しさ」でつり共謀に加え、最初から「百人斬り」ありきで第一報の記事をものにしたこと。
  • 「虚報」をつくるためにいくつかのことを記事にいれなかった。当然、事前談合があったことは書かない。野田少尉の発言で「副官」であったこところを「○官」と伏せ字にした理由。実際に南京であった人数と日時。
  • 向井少尉は砲兵隊小隊長、野田少尉は前述の通り大隊付き副官であり、立場上部隊を離れて単独で戦闘を行える立場に全くなかったこと。
  • 砲兵隊の経験から、戦場で「飛来する敵弾の中」とは敵軍から300mであることは明白だと。砲弾が行き交い、匍匐前進している中で、このようなインタビューを行うことは不可能。
  • 第一報の「百人斬り」までの時間を争うゲームから、続報では人数を競うゲームに変化してしまっている。どちらが先に「百人」に達したかの日時が続報では議論されるべきであり、これは当初からのゲームの勝利条件なのでここをそれぞれが明白に記憶していないはずがない。続報で人数にしてしまったのは、虚報であることを隠すためであり、浅海記者の想像であることを示している。
  • 日本刀、特に江戸時代以降のものは名刀と言われたものも含めて、百人も切れない。まして、鉄兜唐竹割りなど不可能。(参照:戦う日本刀と軍刀評価 → リンク先消失のため代替リンク:軍用日本刀の考察
  • 兵士は軍隊の法でさばかれる。同じ殺害行為でも、戦闘行為、戦闘中の行為、非戦闘中の行為と陸軍刑法では区分けされ、戦闘中の戦闘員の殺害は当然に罪にならない。記事の英文の「インディヴィデュアル・コンバット」と戦闘行為であると認識された東京法廷では向井、野田両少尉は無罪とされた。浅海記者が意図的に戦闘中の戦闘員の殺害であるか、民間人の殺害であるかを「虚報」をまもるため隠したことにより、南京法廷では有罪とされた。
  • 浅海記者の自分を守るための法廷に寄せた証言の欺瞞。そして、そこにある本多記者にまでつながる欺瞞。「軍人よりも軍人的な民間人」が勝手に戦場での「物語」を期待し、虚報を産んだ。
  • 南京も時系列で追って行くと、ほぼ無血開城であったことがわかる。蒋介石の国民党軍も、毛沢東中共軍も、都市での戦闘を好まず、すぐに徹底していった(参照:「祖国復興に戦った男たち―終戦後四年間も中国で戦った日本人の記録]」にも全く同じ体験が書かれていた)。しかし、例によって「戦意高揚」、手柄を立てたという「面子意識」によって大戦闘が行われたと軍が報じたことにより「南京大虐殺」が産まれた。日本側の戦死者の数、入場式が12月17日に盛大に行われたことを考えると、南京の大戦闘自体がありえない。かつ、十二月十一日午前三時の紫金山の「残敵あぶり出し」もありえない。
  • 鈴木記者の戦後の記事によれば、第二報のもととなった会談は十二月十日の午後三時一回しか行われていない。しかし、前述のように「十一日」のことが盛り込まれているという矛盾がある。かなり丹念に山本七平は時間の経過について追っている。


■参照

「百人斬り競争」事件について日本人が知らなければならない「本当」のこと(1/5) : アゴラ - ライブドアブログ
「百人斬り競争」事件について日本人が知らなければならない「本当」のこと(2/5) : アゴラ - ライブドアブログ
「百人斬り競争」事件について日本人が知らなければならない「本当」のこと(3/5) : アゴラ - ライブドアブログ