これはひょっとして、いや、ひょっとしなくとも、論語の読み方の革命ではないだろうか?
- 作者: 安冨歩
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2012/04/04
- メディア: 新書
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詳しくは帰国してから。
目が覚めたので、ちょっとだけ。
安冨先生は本書で片端から論語の伝統的な解釈を片端から覆していく。誰もが儒教精神といえば、権威主義そのもので、保守的で、忠君の道の教えだと思っている。安冨先生の解釈では、孔子はまったくの逆で、常に権威をひっくり返し、君子の失敗、過ちをただすことが臣の道であるとなる。
たとえば、「忠恕」の概念がこうなる。
では忠恕が何を意味するのかというと、論語のどこを見ても明確な説明がない。そこで「忠」という字を良く見ると、これは「中」と「心」がかさねられていることからわかるように、自分の心の状態そのままにいるという意味だ。
さらに、「恕」は「心の如し」であるとし、「忠恕」は「自分自身の本来の感覚に従う」という意味の連文であるとする。
したがって、学而第一の「君子不重」がこうなる。
子曰、君子不重、則不威。學則不固。主忠信、無友不如己者。過則勿憚改。
先生は言われた。君子たるもの、もったいぶって重々しくなどせず、それゆえ、威張ったり威圧したりはしないものだ。学んでも、自分でよく考えて、固陋になぬように。まごこころに従い、言葉を心に一致させる人と交わり、ありのままの自分でいない者を友達にしない。過ちがあればそれを改めることに躊躇してはならない。
私に中で近しい言葉を探せば、「自己反省」となる。坐禅の時にふっとあらわれる、仏道の真理が自分の人生を正すような感じであろうか。「恕」の字は「巫女のエクスタシー」の状態だそうだから、孔子の言のひとつひとつに深い瞑想があるのかもしれない。
したがって、「忠信」の道とは、例えば戦争において特攻を命ぜられて無駄な死を迎えるのではなく、自らの命をかけてでもその無駄な死を軍隊の中で訴えることとなる。もちろん、一般兵のレベルではなく、参謀クラス以上の「忠臣」がだ。
例によって弾さんのこの一言だ。
理念の共有を強要し、理念に異を唱える成員を排除する組織はまさにそのことによって衰退する。「理念に異を唱えることを許す」という理念を多くの組織が組み込んでいる理由がそこにある
https://twitter.com/#!/dankogai/statuses/185196900092350464
そして、安冨先生の「忠恕」の道こそが、死人の残した思いに忠実に生きてしまう「憑依」状態からぬけだす道だと信じる。自由闊達な孔子の死後、孔子が望んだ君子の道の実現のために、秩序に新たな生命を吹き込むべき教えを、儒教教団自体が秩序維持のノウハウに貶めてしまったのは、孔子の「憑依」であったのかもしれない。孔子のように生きねばならない、孔子先生の望んだ任官をなんとしても果たさなければならないという思いが、「忠信」をして、「君子の命令絶対」への道に歪めてしまった。「忠恕」、「忠信」という言葉の意味すら歪めてしまったのではないか。
どれだけ自分の影響力のある「死人」であっても、死人は死人でしかないことを自覚するし、「憑依」から抜け出すのは「忠恕」のこころしかない。自分の根本からの自己反省しかない。自らの心をじっと見つめる静かな時間を持つしかない。