HPO機密日誌

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

性善説と性悪説

久しぶりに守屋洋先生のお話を聞く機会があった。近著の内容にもとづいてのお話だったが、性善説性悪説のどちらを取るべきかという話がまくらであった。

日本に渡ってきたのが墨子だったからだという話はともかく*1、日本人はやはり性善説だといっていいのだろう。この期に及んでまだ政府やお役人を信じていられるのだから、お人好しにもほどがあるというくらい性善説なのだろう。

中国と日本を比べればはるかに中国人の方が政治にたけているのはいうまでもない。中国人は性悪説が徹底的に身にしみているかだといってもいいのかもしれない。

安冨先生のハラスメントの議論にしろ、君子のひとつの条件として性悪説でせまってくる相手にどう対応したらよいかという術策を身につけておくことは大切なことだ。守屋先生はそのためには人を見る目を持っていなければならないという。中国の古典のかなり部分は実は人物鑑定についてであるといっても確かに過言ではない。

たとえば「その養うところを見る」という言葉がある。

あるいは、人を見るのに「笑わせてみる、怒らせてみる、酔わせてみる」というのもある。まぁ、実に中国の歴史の中でありとあらゆることを試してきたのだろう。

私は論語の徳に大変共鳴する。昨日の話ではないが、徳と知恵が生きていく上で不可欠であるのは言うまでもない。しかし、ハラスメントというか悪意にあって性善説が崩れてしまうのではあまりにかよわすぎ、君子とは言えないのではないだろうか?

先生の講義のメモを別のところに置いてきてしまったので、明日はメモをみながらもう少しこの問題について考えてみたい。