禊ぎは宗教的行為だろうか?自己に責任を求める反省は信仰だろうか?
日本人の博愛精神――知られざる感動の11話(祥伝社新書238)
- 作者: 中山理
- 出版社/メーカー: 祥伝社
- 発売日: 2011/04/02
- メディア: 新書
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禊ぎを最初に行ったのは、ヨミの国から帰還したイザナキの尊。古事記では、ここで「見畏み」という言葉を使っているのだという。そして、スサノオの暴挙から「天岩戸隠れ」をされたアマテラスも「見畏み」されたと記述されているという。
『古事記』では、その箇所を「見畏 - ミカシコミ」と、記しています。
見畏み (みかしこ-み): さぁ みんなで語り合おう
ところが、最近では、この「見畏」という文字は、「反省する」と言う意味だということが分って来たというのですね。
そこで、日本語の「畏」という字の意味を考えてみましょう。
この「畏」は、「畏怖」という字に使われているように、恐ろしいという意味よりも、「上」に対して敬虔な気持ちを表す言葉ということを、前にも書きました。
つまり、悪人や病気に対して恐怖を感じた時に「恐」という字を使うことにたいして、神様に対して怖ろしさを感じた時には、この「畏」という字を使うようです。
そして「見畏」という言葉は、自分の足りなさを痛感して、神様に対して申し訳ない・・・という気持ちを表した言葉なんだそうですよ。
そのほかに、人間が怖れる心を表す言葉が「恐」に対して、神が怖れる心を表す言葉を「畏」と表す・・・という解釈もできそうです。
そういうわけで、天照大神が洞穴に隠れたのは、弟の須佐之男尊が恐いからではなくて、実は、真剣に自分の力の足りなさを反省して、真剣に人々の生活が良くなるように祈ったというのです。
アマテラスの自己反省というと、思い出す体験がある。
ああ、太陽は見返りをまったく期待せずに、空に輝いている。その力でぼくらは生きているんだ。
麗しい澤: HPO:個人的な意見 ココログ版
上に立つ者こそが、反省をし、禊ぎをしなければならないという暗黙の風土が日本にはある。これはともて大切なことだと信じる。