理念と現実の差を感じる。法律とは、どこまでがルールで、どこまでが理念なのだろうか?
- 作者: 倉沢康一郎
- 出版社/メーカー: 弘文堂
- 発売日: 1986/03
- メディア: 単行本
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一人一人の力の差を捨象することができるような超個人的な強大な力の機構、これが国家である。西ヨーロッパの近代政治史は、ナショナリズムつまりできるだけ強大な力を国家に集約させるための人類の歩みである。
ここに問題は集約されている。法学の基本的なこの考え方をルールととらえるか、理念ととらえるかで結果は大きく違う。考え続けている問題だ。
さて、法律のモデルとする人格への要求はやさしくなり、組織への想いがなくなっていく傾向の帰結として、各組織は実にもろくなってしまうということになる。産業の花形であった自動車分野が没落しつつあるように、大きく産業構造は変わりつつある。企業が握っていた利益の源泉が簡単になくなってしまう環境にある。構成員の顔が失われた組織は、こういう時代には実にもろくなる。もろもろの崩壊していく組織を見るたびに暗鬱になる。それでも、一旦できた法律はそうそうは変わらない。この辺がアンバランスが気になって仕方がない。
2009-02-19 - HPO:機密日誌
法律体系の目指す「一人一人の力の差の捨象」が、血と戦争で勝ち取った民主主義の基本理念と一致することは理解できる。だが、理念だけでは組織も、社会も維持できない。ルールだけでは社会の変化に対応できない。組織を構成するには、最低限の成員の力量が前提となる。そして、ルールの範囲内での自由を最大限に活用した多様な活動が必要となる。
憲法において、日本人イコール国民は、すでにかなり民主主義と自由主義への理解が深いことを前提にしているというのが結論。確か米国の市民権を得るためには米国憲法の前文を暗唱できなければならないのではなかったっけ?
日本人であるための「要件」を憲法から考える - HPO:機密日誌
そして、逆に言えば法律は国家という最大の権力に対するワクづけだと。
本書を読んでから日本国憲法を見直す気になった。外から与えられた身の丈にあわない衣だとはいえ、国家と市民との長い長い「闘争」に対するひとつの解答であるのだと受け入れる気になった。特に、近代憲法の3つの原則が日本で確立されたことの意味を感じる。
「法とは国家権力の行使に対するワク」 - HPO:機密日誌
ここで思い出すのは、「市場の倫理、統治の倫理」。
基本的に法律は統治の倫理だ。自由の活用は市場の倫理だ。この2つをまぜあわせて考えがちなところが、プラトン以降の法哲学、法倫理の最大の焦点ではなかろうか?
そして、国民の側から言えば、この2つの倫理体系のせめぎあいが、法律の体系と、そこで活動する人々の活動の永遠の矛盾であり、永遠の活動の源泉なのだろう。