HPO機密日誌

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

すべての道はギリシア哲学に通じる

ジェイン・ジェイコブズの「市場の倫理、統治の倫理」に夢中になっている。

市場の倫理 統治の倫理 (日経ビジネス人文庫)

市場の倫理 統治の倫理 (日経ビジネス人文庫)

内容は、橘玲さんが日本の我々にもわかりやすように要約、展開してくださっている。このエントリーを読んだ後では、自分で要約する気がうせた。

この2つの倫理を「混ぜてはいけない」というのがジェイコブズの主張の大きなところなのだが、その主張はそのままプラトンの洞察であったと。

ちょっとぐぐってみるとニュアンスの違いがある。

では、ソクラテス、すなわちプラトンは、正義をどう考えているのか。プラトンによれば、個人には、欲望的な部分、気概の部分、理知的部分の三つがあり、それに対応して、国家にも、一般大衆、戦士、統治者の三つの階級がある。それぞれが、節制、勇気、知恵という徳を守り、全体として調和がとれているとき、すなわち、「金儲けを仕事とする種族、補助者の種族、守護者の種族が国家においてそれぞれ自己本来の仕事を守って行う場合」 [プラトン:国家〈上〉,434C] に、正義が実現する。

それでは<不正>とは、こんどは、三つあるそれらの部分の間の一種の内乱であり、余計な手出しであり、他の分をおかすことであり、魂の特定の部分が魂の中で分不相応に支配権をにぎろうとして、魂の全体に対して起こす叛乱でなければならないのではないか−その部分は本来、支配者の種族に属する部分に隷属して使えるのがふさわしいような性格のものなのにね。思うに、何かそのようなこと、すなわちそれらの種族の混乱や本務逸脱が、不正、放埓、卑怯、無知、一言で言えばあらゆる悪徳にほかならないのであると、われわれは主張すべきだろう。

国家-正義について|システム論アーカイブ雑記編|永井俊哉

もうちょっとつっこみたいが今日は時間切れ。

ただ、どの道から深く潜行していってもプラトンにたどりついてしまうことにようやく気づいた。

プラトン初期対話篇研究

プラトン初期対話篇研究