HPO機密日誌

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

軍事政権という安価な解決

病にふせっていた時、三部作を見た。

独特の世界観だった。民主主義の崩壊した後、軍事政権が世界政府を樹立すると。参政権投票権を持つ「市民」(シティズン)になるには、軍役を経ることが必ず必要。それ以外は「文民」(シビリアン)という階級になる。財産権などは、シティズンも、シビリアンも平等に認められているようだ。

一見不可思議な政治体制とも思えるが、よくよく考えればギリシア、スパルタ以来、軍役経験者のみに市民権を与える制度は、政治徳目上なじみがよい。

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ジェイコブズの考えるプラトンの2つの倫理をきちんと分けるためには、教育の場面から区別されなくてはならない。普通に考えれば、市場の倫理の体系と統治の倫理の体系は明らかに矛盾する。現在の考え方は、職業として政治家とお役人を選べば自然に統治の倫理が身につき、他のほぼすべての職業を選択すれば市場の倫理が身につくとされる。裁判官、弁護士が若干グレーゾーンかな。倫理は職業には影響されるが、選択しただけで倫理体系を実践できるかはなはだ疑わしい。本来、育った家庭環境から分けられるべきなのだ。せめて、倫理の違いがあるのだともっと自覚的に選択されるべきなのだ。

軍役を選択することができる政治体制は、それぞれの倫理を体系的に信条とする市民を自ずから分けることになる。市場と統治の倫理体系の混合を避けるという意味では、ローマ帝国以来の賢い政治選択体制である。

もっと近代の事例を考えよう。ナポレオンの発明した国民軍というのは、自分の国を自分で守る軍役を全国民に課すことによって、全員が国家元首を選ぶ選挙権を得るということ。参政権を貴族、王族によって独占されていたフランス人にとって、命をかけてでも市民権、参政権が欲しかったのだろう。ローマ市民権を持つ人々で埋められた円形闘技場で、ローマ皇帝が「承認」を得たのと同じだ。

しかし、民主主義という政治体制は、参政権を持つ「国民」によって万民が万民の主になるという望ましくない副作用を生む。なぜなら、永遠に国民は国民を甘やかし続けるからだ。何人も、自分自身の裁判官たり得ない。特に、お互いに権利の行使を見張り合う状態であれば、厳しく施行することは排除され、どこまでもお互いのために甘くなっていく。経済政策がこの最たるものだと私は思う。結果として、軍事予算や、福利厚生費用をはるかに超える巨額の経済、金融政策をとらざるを得なくなったり、GDPの数倍に匹敵する国家債務を背負うことになる。

これに比べれば、軍事政権ははるかに安上がりかもしれない。自分の命と参政権を天秤にかければ、自分の命の方が重いと思えば、永遠のシビリアンでいればいい。真剣に国と自分の将来を憂えれば、軍隊に入ればいい。

ちなみに、私は防衛大学校を受験した。普通の大学に行くか、防衛大学校に行くか悩んだ末に、しっぽをまいてシビリアンの道を選んだ。

まことに人が集団で生きることは難しい。