HPO機密日誌

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

国とは頼るものか?作るものか?

弾さんとTwitterで議論させていただき、自分の立ち位置が見えてきた。歴史的に形成された日本の社会の伝統を重んじながらも、自由と、小さな政府を志向すべきだと私は信じている。弾さんはもっとラジカルな自由主義なのだと推測する。強い個人が集まってこその国家だと。「強い」とは、国家、国民の歴史と伝統に依って立つことなく、手段として国家を使った生き抜いていこうという覚悟を持つ人たちのことだと私は受け止めた。

民主主義の理念と自由から考えてみよう。

民主主義国家とか、国民が集合的に主権を持つ。主権を持つとは、万民が万民の主人であるというクラインの壺のような不可思議な状態だ。だからこそ、国民の連帯と国家を形成するための最低限の総意が不可欠である。ただ残念ながら国家体制は、国民の連帯からはみ出る部分を必ず持つ。それは、人と人との間のルールを強制するための警察力であったり、自分の国を守るために相手の国の兵士を殺せと命ずる宣戦布告であったりする。この穴を埋めるのは、個人の自由と国旗国家などの象徴の力、公への貢献の覚悟しかない。

国家は単に人が集まっただけでは形成されない。

では、どのように国家の理念とは形成されるのか?たとえば、フランス革命以前のフランスでは王と貴族が武力と参政権を独占していた。したがって、国民軍と一般民衆の参政権は表裏一体でなければならなかった。武力闘争をして、初めて権力と自由と博愛と平等の理念をあまねく国民の間に浸透させられた。民主主義とは、民衆が武力を持つということであり、互いに強制しあう力を政府に委託する仕組みであった。よって、どのような理念を共有するかが大変な問題であった。理念が違えば、ギロチン送りにされた。現在のフランス政府は第5次共和政と名乗っている。フランス革命以来、5回も6回も血で血を洗う政治闘争を繰り返して現在に至ったということだ。理念が違えば殺し合いをしてきた結論を出してきた歴史なのだ。

この理念を闘争をしてでも国民の総意とする歴史の過程が日本には薄い。西郷翁が明治維新が成ったとき「まだ血が流し足りない」といったとか、言わないとか。理念による粛正を経験せず、人口の数パーセントが参加した革命で現在に至る法治主義の政府が樹立してしまった。第二次世界大戦と与えられた新憲法という洗礼は受けたが、いずれも国家理念の闘いにはならなかった。日本という地域に住む人々がなんとはなしに、「日本国」の国民ということでうやむやのままだ。

大日本帝国憲法の改正として成立した日本国憲法においては、ゆるい連帯しかない日本の国民の間で、互いに同意しあえる秩序の象徴として天皇を置いた。国旗国歌、あるいは日本国の民主主義という理念ではなく、生身の人間である昭和天皇今上天皇に象徴としての地位を与えたことは、米国のずるさだと私は思っている。しかし、長い長い国家伝統を体現された天皇家はすばらしい。押しつけられた民主主義国家日本の象徴としての役割を見事に果たしてこられた。私は深い尊敬の念をもって天皇陛下を見ている。平成24年、皇紀2672年の歴史を持つこの国の歴史は世界的に見て代えがたい価値を持つと思っている。ここが私が弾さんと理念を異にするところだ。私は国家は伝統主義と歴史によって形成されると信じている。理念はみんなで大切にし、形成の努力を怠ることはできないがそれでも、国家体系の穴は埋めることは出来ないと思っている。

ゆるい理念闘争の歴史の結果として現在の日本の形があるから、ゆるい自由ゆるい義務しか日本にはない。万民が万民の主人である体制を野放図にすれば、権利ばかりが主張される国になる。結果、私を含めてゆるい思想とその実践しかできない国民しかいなくなる。だからこそ、国旗国歌という非人格的な象徴とお互いを大切にする国家体系を大事にするという国民の総意が必要なのだと私は信じる。歴史的な展開の結果として、国の中での生活している人々同士で連帯し、国家の体裁を整える理念の力を発揮するには、いまのところ人格を持った象徴としての天皇陛下をおいてない。この歴史と、国旗国歌への忠誠と尊敬の大切さを義務教育において十分教えた上で、それでも表現として国旗を燃やしたいやつがいるなら、(個人的には全く許しがたいと思っているが)日本の国家の法体系上許容せざるを得ない。なぜなら、日本の国は民主主義で自由主義の国だから。日本は国民がお互いを大切にしあう国だから。

ここまで考えてくると、大阪における一連の教師による国旗国歌への不敬は法律上も、理念上も、国民となるために最低限受けるべき義務教育の上からも、許されるべきではないことが理解できる。

弾さんが主張されるような、歴史や伝統に依ってたたずに、現在の状況における絶対的な自由に耐えられる国民ばかりであれば、生き抜くための手段としての国家だけでよい。いや、それでもかなり大きな国家になりそうで心配ではある。国、公共とは、みんなで作り上げていかなければならない、穴を情念や理念や象徴の力でうめなければならない。だからこそ、国旗国歌を子どもだろうと大人だろうと大切にしなければならないと私は信じ続けている。

下手に民主主義と自由主義の迷路をさまようのなら、軍事政権の方がひとりひとりの負担は少なくて済むのではないかとすら考えている。

結局のところ、国とはきちんと実質があってこれに頼り切るべきものなのか、あやういものであり国民の連帯を常に大切にしながら作り直しつづけるものなのかという認識が国内で大きな違いとなっている。まして、他国からの干渉をうけて思想信条を変更した輩がこの問題を複雑にしているように感じられてならない。