明治憲法は、絶対権力者を作らない仕組みになっていたと。そして、近代の列強と呼ばれる植民地国家は、総動員によってのみ戦いに勝てるという前提において、民主主義、法治主義、国民皆兵を実施した。結果が硬直的な憲法、国家運営となり、戦いに勝てるはずのない日本になってしまった。それでも、戦わざるを得なくなれば足りないところは精神論でとなる。
#五箇条のご誓文 で解く日本史。やはり、憲法を変えられない国の末路は精神論になる。状況に応じて憲法は変えるべき。 pic.twitter.com/ywQrgwJu6b
— ひでき (@hidekih) 2018年3月1日
#五箇条のご誓文 で解く日本史。先ほどの続き。 pic.twitter.com/kxHH2gxjG4
— ひでき (@hidekih) 2018年3月1日
特攻、本土決戦は、物量では勝てない戦いだという明確な認識において打ち立てられていた。
そして、国民も戦いの顛末、みんな死ぬのだという認識で戦い続けた。この結果が日本の敗北となり、精神論の果の虚無となった。
では、いまどうしたらよいか?著者の片山杜秀氏は、「農本主義的縮志向の肯定」へと向かえと言う。日本は背伸びをしようとして道を誤ったのだと。安易な二大政党制志向は衆愚政治となるだけだと。これまた精神論ではないかと言いたくなるが、もう一度農本主義的、鎖国的な身の丈にあった日本の国の姿を描けと。
五箇条の御誓文を出発点として、明治150年を活写されたことは大変興味深いが、未来の日本の礎としてどうこの「五箇条」を活かしていくかは、現代日本の憲法改正と照らし合わせて、深く考えられるべきだと私は思う。