HPO機密日誌

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

コンビニが公衆トイレを駆逐する自由

最後に公衆トイレを使ったのはいつだろう。最近、公衆トイレそのものを見ない気がする。たまにあってもすごく汚かったり、紙がなかったり管理されていない感じがする。そもそも、「もよおして」しまったときも、さがすのはコンビニだ。営利事業であるコンビニが、非営利に管理される公衆トイレを不要にしてしまった。非営利よりも、営利事業の方が国民の公益に貢献している例ではないか。

そういえば、ずいぶんいろいろな国にいったが、トイレの清潔さ、便利さって、その国の自由の高さを比例している気がする。文明というか、物質的に言えば中国はわりと整った国であるが、トイレは汚かった。ほんとうに汚かった。最近は、だいぶよいのだろうが、つい数年前に行った時には、同行者の中で便秘になる人が出るほどであったのを記憶している。

タイのトイレはきれいだったように思う。沿岸部の中国よりもまずしい地域もあったように思うが、仏教国だからか大便器には、かならずホースがついていて局部を洗えるようになっていた。ひとびとの衛生概念も比較的よかったように思う。

内蒙古はひどかった。生まれてから一度も風呂を使ったことがないという人にもあった。満天の星の下で、穴を掘っただけのトイレを使った体験は一生忘れないだろう。

行った時期がよかったのか、米国のトイレであまりいやな思いはしたことはない。トイレのブースの扉が短くて、下から覗けてしまうことにもあまり抵抗はなかった。人によっては、破壊され、ひどい落書きをされたトイレの思い出を持つ人もいるかもしれない。文明化され、高層化された地域が戦争以外の理由で文字通り「スラム化」してしまった地域があるというのは、案外少ないかもしれないと思う。

あと特筆すべきなのはイスラエルくらいかな。インティファーダと言われていたころに訪問したきりだが、実に快適で、思いで深い旅であった。トイレも、街区も衛生的であった。たしか、エルサレムの公衆トイレに入ったが、安全であったし、きれいであった。もっとも、有料だったかな?

タイトルからだいぶ離れた思い出話になってしまった。ま、トイレはきれいなのにこしたことはないし、あらゆる意味で不自由よりも自由の方がいい。