HPO機密日誌

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

「ノルウェイの森」の深い井戸

1Q84」が話題なせいか家人が「ノルウェイの森」を読みたいと言い出し、地下室から取って来た。つられて始めから4章のところまでを読んだ。ちょうど「ノルウェイの森」の原型となった短編「蛍」の部分だ。

ノルウェイの森(上)

ノルウェイの森(上)

ノルウェイの森(下)

ノルウェイの森(下)

村上春樹の作品によくでてくる井戸が冒頭で直子の口から語られていたことをすっかり忘れていた。そのままワタナベが語るように記憶とは不思議な性質を持つものだ。

どこにあるかだれにもわからない井戸。人が生きて行くうえで確かにおもいもよらない深い井戸にはまることがある。まだすとんと落ちる感覚のある井戸ならいいが、歩いているうちにいつのまにか脱出のしようもない深い井戸の中にはまってしまうのではないかという恐怖がある。

中年の恐ろしさとは、生きることにむやみになれてしまい、人生の山にも谷にも鈍感になってしまうことだ。自分を慰めるつまらない習慣が贅肉のように生活についてしまいがちだ。生活の贅肉とはたとえば先日お会いしたパチンコを語る老齢とお呼びしても失礼でない方のようなものだ。その方は、小一時間パチンコについて話された。いかにパチンコに中毒性があるかを説明してくださった。またなぜ自分がパチンコからぬけられないか、説得力のある話しをしてくださった。

べつにパチンコが悪いというつもりではない。年をとるとつまらない生活の慰めや、ささいなアドレナリンの放出が必要となる。そして、ささいではあっても身に着いてしまった贅肉のような習慣をシェープアップできなくなってしまう。

気がついたら井戸の中にはまっていたらどうしたらよいのだろう。いまの私には心底わからない。

家人はしきりに「こんなに落ち込む小説だから、あんなに流行ったのに誰も薦めないんだね。ねえねえ、ミドリさんも死んじゃうの?」といいながら「ノルウェイの森」を私の隣で読み続けている。

■追記

ノルウェイの森」をコミュニケーションの変遷として読んでいらっしゃる。