HPO機密日誌

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

「国境の南、太陽の西」を読んだ (ネタバレあり)

一昨日書いたとおり、「国境の南、太陽の西」を読もうと想っていた。たまたま入った本屋で見つけて買った。そのまま電車に乗って、夢中で読んだ。電車の移動中では終わらなくてカフェに入って読み続けた。危うく夜の会合の時間に遅れそうになった。

たしか本書が出版された頃に、読んだはず。ということは、私が結婚したての頃。そう、人生の悪の存在を知らなかった頃。私の人生の愛と性の物語がようやく始まった頃。

足を引きずる島本さんについて青山を「僕」が歩く場面や、建設会社を経営する義父とのやりとりなど、いくつかの場面を明確に覚えている。一度は読了したことは間違いない。にもかかわらず、全体を非常に新鮮に読んだ。

国境の南、太陽の西

国境の南、太陽の西

再読して、話しの端々が、私の半生に重なることに戦慄した。この物語には20代から今の40代にかけての、離婚を含めた私の人生のシーンのからけが重なる。ちらばっている。もちろん、もっと気が強いだろう、こんなに平和裏ではないだろうとか場面場面に相違はある。それでも、生と死、愛と性についての相似性に背筋が寒くなった。ああ村上春樹の通俗小説に重なるくらい、私の人生はありきたりのものなのだともう一方で納得した。

この物語は、ハジメ=「僕」とイズミ、イズミの従姉妹という三角形における悪が、ハジメと妻の有紀子、島本さんの三角関係によって再現される。悲劇は、繰り返されることによってより悲劇性が深まる。意思にかかわらず悪が不回避であることが悲劇となる。最後に出てくる「表情という名前で呼ばれるはずのものひとつのこらず奪われた」イズミは、妻の有紀子がそうなってしまうという予感を暗示する。イズミの従姉妹との出会いと、その36才の死も、島本さんの消失と重なる。

愛は堕ちるものであって、するものではない。性の落とし穴も、はまるものであって、入るものではない。まっとうな人生を送ろうと想う自分の意思に反し、悪は生じてしまう。最も裏切りたくない相手をやすやすと裏切ってしまう。

最後の有紀子のセリフのひとつひとつに、孤独を感じる。精一杯の言葉を、ハジメに投げかけているのに、壊れてしまった関係はもとには戻らない。ハンプティダンプティ。悲しい限りだ。

いっそ義父のいう通増的な解決に従っていたら・・・。いや、従わないからこそ村上春樹ワールドなのだが。

「あんまりつまらん相手は選ぶな。つまらん女と遊んでいると、そのうちに本人までつまらん人間になってしまう。馬鹿な女と遊んでいると、本人まで馬鹿になってしまう。でも、かといってあまりいい女とも遊ぶな。あまりいい女と関わると、もとに戻れなくなってしまう。もとに戻れなくなると行き迷うことになる。俺の言っていることはわかるだろう。」